塩野義製薬(しおのぎせいやく、英語: SHIONOGI & CO., LTD.)は、大阪府大阪市中央区道修町に本社を置く、日本国内の大手製薬企業であり、処方箋医薬品と医薬品を主とする製薬企業である。公式の社名略称として「シオノギ製薬」あるいは「シオノギ」も用いられている[1][2]。, 社名の由来は、創業者の塩野義三郎の名に因むもの[3]。ロゴマークは、天秤で薬量を正確に計量するために用いられた分銅に由来している[4]。, 2017年7月時点の時価総額は、武田薬品、アステラス製薬、大塚ホールディングス、中外製薬に次いで医薬品セクターで5位。, 創業者の塩野義三郎が、1878年3月17日に、大阪・道修町にて薬種問屋「塩野義三郎商店」を開く。なおこの店の商号は、正確には個人名のみの「塩野義三郎」であった。ただし、義三郎個人と店に関する事柄を区別するため、「シオノギ百年」(脚注参照)などに見られるように、通常はこれを「塩野義三郎商店」としている[5]。塩野家と道修町との関係は、義三郎の祖父・初代吉兵衛[6]が、1789年、道修町の薬種商「塩野屋藤兵衛」家に12歳で奉公に出た時に始まる。初代吉兵衛は、1808年、塩野屋藤兵衛の別家として、言わば「のれん分け」というカタチで、塩野屋吉兵衛を名乗ることとなる。"塩野"姓を名乗るのは、続く二代目吉兵衛の時である(1872年)。なお、塩野屋という屋号自体は、道修町に残る最も古い文書(1658年)にも記載されており、道修町でも古いのれんを誇っていた。, 創業当初は和漢薬専門であったが、明治維新後の西洋医学普及に伴い、洋薬の需要が高まると共に、1886年、和漢薬専門から洋薬のみを取り扱う方針に切り替える。そして1909年には、自家新薬第一号として「アンタチヂン」(健胃制酸薬)を製造販売する。翌1911年には、1909年にドイツで開発された「サルバルサン」(梅毒治療薬)を輸入販売している。さらに1912年には強心剤「ヂギタミン」、1917年には睡眠鎮静剤「ドルミン」、1918年には下剤「ラキサトール」などを次々と製造販売する。また家庭用医薬品として、1926年に皮膚病新薬「オイロ」、1929年に水虫専用薬「ポンホリン」、1931年に痔薬「カヴィドール」、1933年に狭心症薬「ハセスロール」などの製品を販売する。この他、大日本臓器研究所(現:日本臓器製薬)が製造していた増血薬「マスチゲン」を取り扱ったり、また独・バイエル社の代表的薬品として知られるアスピリンのライセンスを得て、「シオノアスピリン錠」として、国内で製造販売するなどしていたことがある。, 医薬品製造工場として、1892年に、相生工場[7]、1910年には塩野製薬所[8]、1921年には浦江試験所[9]、1922年には杭瀬工場[10]を建設する。同時に販路を全国に拡大するための営業活動を展開しつつ、1919年に法人としての、株式会社 塩野義商店への改組を経て、1943年に現商号に変更、総合的な医薬品製造販売メーカーとしての基礎を固めた。, 第二次世界大戦直後、シオノギは製薬業界の花形商品となった抗生物質、ペニシリンの開発を試みたが、技術面・資金面ともに力不足だったため、止む無く断念した。しかしその後も抗菌薬の研究をおこたることなく、医療用医薬品市場が、抗生物質全盛時代を迎えた1980年代後半にかけて、抗生物質で売上高首位を記録する[11]。, 主力となったのは、1960年代に新たに開発されたセファロスポリン系(セフェム系)抗生物質である。シオノギでは、製造元の米・イーライ・リリー社から、発売間もない新製品を次々と導入し、自社で製品化していった。また自社研究所で新薬の創製に成功したことで、シオノギは輸入商社としての機能に加えて、製造(製剤)能力および研究能力を兼ね備える一大医療薬品メーカーに成長した。, シオノギは、医療用医薬品市場の重点疾患領域として、感染症領域、がん性疼痛緩和領域、そして循環器領域を主力としていた。, 一方で、感染症治療薬の使用量は1980年代に入ると、耐性菌に対する懸念などから横ばい状態となり、1990年以降大幅に減少した。それに伴い、抗生物質依存度の高かったシオノギの業績は急激に落ち込んだ。それを救ったのが、クレストールである。, クレストールは、1991年にシオノギで創製後、1998年に、英・アストラゼネカ社が開発を引き継いだHMG-CoA還元酵素阻害剤(脂質異常症治療薬)である。日本での発売は2005年であり、2009年10月現在、100か国以上で承認及び80か国以上で販売されている。シオノギに入るロイヤリティーも大きく、同社は2010年以降業績を大きく持ち直した。, シオノギと医療用麻薬とのつながりは、麻薬生産者協会5社のうちの一社として、1948年に、モルヒネなどオピオイドの製造販売を開始したことに始まる。1989年には、「WHO方式がん疼痛治療法」で必要な、MSコンチン錠(モルヒネ徐放錠)[12]を発売。2003年には、オキシコンチン錠(オキシコドン徐放錠)、さらに2007年には、オキノーム散(オキシコドン散剤)を発売する[13]。MSコンチン錠とオキシコドン各製剤は、共に「がん性疼痛治療薬」として、基本となる薬剤(成分および剤型)である。, 種々の方法で製品化された有用な医薬品を、医療の最前線に届けるのは営業マン(プロパー)の仕事である。シオノギの営業と言えば、抗生物質全盛時代には最強の営業部隊として知られていた。文献検索や学会発表用のスライド作成だけではなく、学術的な発展のためにも処方元の医師のために限界までつくしたと言われている。そのプロパーのことを、シオノギでは当時すでにディテールマン[14][15]と呼んでいた。例えば、自社抗菌薬の特性を論理的に説明(ディテール)する手助けとして、「PK/PD理論」のさきがけともなる考え方を世界に先駆けていち早く採用[16]していた。, 製薬業界全体で、プロパーの呼称をMR(医薬情報担当者)と改めたのは1993年のことである。そしてその後の、国家公務員倫理規程の強化、女性MRの台頭、さらには日本製薬工業協会の申し合わせにより接待行為の全面禁止が2012年4月1日から実施されるなど、医療関係者(特に医師)とMRとの関係は急速に変化してきている。そうした中で、シオノギでは2012年初頭から、ディテールマン(医科向け営業マン)の属していた「学術部」の呼称を廃止している。, 1886年の洋薬転換後、「シオノギ」ブランド[17]で数多くの家庭用医薬品を取り扱っている。戦後に入ると、これら戦前からの家庭用薬品からは撤退し、1961年大阪市福島区の工場を研究所に格上げすると共に、病院向け抗生物質へ本格参入。抗生物質分野でのシェアを不動のものとする。, 取り扱う医薬品の97%が医療用医薬品で占めており、主力は、高脂血症治療薬・抗生物質・癌性の疼痛治療薬である。かつては医薬品業界における同社のイメージと言えば、「抗生物質(抗菌剤)」と「強力な営業部隊」で知られ、かつて、抗生物質全盛の時代には、快進撃を続けていた医薬品メーカーであった(規模の点では、昔から武田薬品工業[18]の方が大きかったが、タケダは幅広い分野に満遍なく製品を揃えるという「全方位的なメーカー」であると言う大きな違いがある)。, しかし、薬剤耐性菌の問題が取り沙汰され、抗生物質自体の売れ行きが鈍くなると共に、抗生物質に大きく依存していたため、一時急激な減益で先行きが危ぶまれたが、高脂血薬のクレストール開発販売が成功した2010年以降、急速に業績を回復しつつある。, シオノギが感染症治療薬を取り扱う様になったのは相当古く、1910年に学会発表された梅毒治療薬「サルバルサン」を、その年の末には開発元の独・ヘキストから輸入販売している。その後もシオノギは、世界の製薬企業から効能のある新薬の輸入販売を継続し、ことにアメリカ合衆国の医薬品大手であるイーライ・リリーとは、1909年にゼラチン・カプセルの輸入に始まり、1923年にはインスリンの輸入、1953年にはアイロタイシン・アイロゾンの独占的販売権の締結を経て、1966年にケフリンの取り扱いの他、1991年の塩酸バンコマイシンの輸入まで、長い関係を持っていた。, 20世紀に於いて製薬業界の転機とも言えるのがペニシリンを始めとした抗生物質の発見・開発だったが、ことペリシニンに関しては第二次世界大戦直後の日本の製薬業界にとっては花形とも言え、シオノギを始め多くの会社が開発・製造に着手した。だが前述の様に、発酵技術の未熟や資金不足からシオノギは1949年に開発を断念する。自社でのペニシリン開発こそ頓挫したものの、抗菌薬そのものの基礎研究はそれ以降も継続され、1953年には、前出のイーライ・リリー社から導入した、マクロライド系抗生物質のアイロタイシンを、自社で製品化した。, さらに自社研究所で、持続性サルファ剤シノミン(スルファメトキサゾール)を新たに創製、1959年に販売を開始した。シノミンは、翌1960年には、瑞・ロシュ社へ技術導出[36]された。そしてその後、同研究所と英・ウエルカム社研究所の合同基礎研究によって、新たにST合剤(バクタ:スルファメトキサゾール・トリメトプリム製剤)として創製[37]され、今日まで世界中で広く使われている。, 1980年代後半に医療用医薬品市場は、抗生物質全盛時代を迎える。それと共にシオノギの抗生物質の売り上げもピークに達した。その当時のシオノギの売上高の概略は以下のとおりである。総売り上げ約2,000億円[38](市場シェア5%強)で、売り上げ全体の約3分の2近くを抗生物質が占めていた(市場シェア約25%)。その中で、代表的な抗生物質の売り上げ高は、ケフラール(内服)約600億円、シオマリン(注射)約400億円であった。この2品目だけで、売り上げ全体のほぼ半分を占めていたことになる。なお、薬局薬店向け医薬品の割合は約3.5%である。「シオノギの経営」(脚注参照), 同社の主力となったのは、主にセファロスポリン系抗生物質である。セファロスポリン系(セフェム系)抗生物質は、1960年代に米・イーライ・リリー社によって製品化された新しい抗生物質である。シオノギでは、注射用剤として1965年(昭和40年)にケフリン、1967年にケフロジン、そして1970年に内服のケフレックスを次々と同社から導入して、自社で製品化していった。そしてその後、自社研究所で新薬創製に成功する。1981年に発売されたシオマリン(世界初のオキサセフェム系抗生物質)と、1988年に発売されたフルマリン(これもオキサセフェム系)であり、いずれも注射用製剤である。また内服では、ケフレックス(前述)に引き続いて、1981年発売のケフラールをイーライ・リリー社から導入、さらに自社研究所で1997年発売のフロモックスを創製している。これらもすべてセフェム系抗生物質である。, セフェム系抗生物質以外の、主な抗微生物薬としては、1991年に、イーライ・リリー社から塩酸バンコマイシン(グリコペプチド系抗生物質)を導入して販売開始。さらに自社研究所で、フィニバックス(カルバペネム系抗生物質)の創製に成功、2005年に販売を開始している。また2010年末には、ラピアクタ(抗インフルエンザウイルス剤)の販売を開始している。シオノギが米国のベンチャー企業(バイオクリスト)から導入して、日本国内で開発を行ったもので、世界初の注射用ノイラミニダーゼ阻害剤である。, その他にフラジール(メトロニダゾール)がある。1957年、仏・ローヌ・プーラン・ローラー社研究所で開発された抗トリコモナス剤である。1961年に国内にて販売開始、2005年になって、「ヘリコバクター・ピロリ除菌」(二次除菌)に関する効能・効果及び用法・用量が追加承認され、2010年には、除菌に関する効能・効果の範囲が拡大された。さらに2012年(平成24年)には、公知申請によって「細菌性腟症」の効能・効果及び用法・用量が追加承認された。, シオノギでは、2010年7月に“抗菌薬の適正使用を推進することで、耐性菌の出現を抑制し、既存抗菌薬が有効活用できる環境作りを支援する”との目的で、「感染症薬適正使用推進室」[39]を創設している。感染症治療の薬は、新薬の発売とそれに対する薬剤耐性菌の出現という、いわば“いたちごっこ”を繰り返してきた。, 1980年代になると、抗生物質の使い過ぎと薬剤耐性の出現との関係が懸念され始め、抗生物質の使用量は、1980年代後半をピークに2010年頃には半分以下となった。そうした中で、世界中の製薬企業が抗菌薬市場から撤退し、薬価の低下から新薬の発売が殆ど見込めないという状況になっている(その半面、生活習慣病領域の規模が大きくなっている)。, しかし、薬剤耐性の脅威はむしろ増加している。例えば、多剤耐性菌による院内感染の社会問題化、あるいは未知のウイルス出現である。塩野義製薬は世界でも数少ない感染症治療薬の開発企業で、今後の動向が注目される。, 1964年の放送開始からフジテレビ系列の一部(2016年4月現在17局ネット、11局非放送)で、今日まで放送されている音楽番組『ミュージックフェア』(2001年4月7日から2008年9月27日までは『ミュージックフェア21』)のスポンサーを40年以上にわたって継続している。但し、東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響から2011年3月19日放送分のみスポンサー自粛を行い、ACジャパンなどのCMで穴埋めをすることとなった。, 長きにわたって、企業CM中心で放送しており、1970年代からは、声優でナレーターの野田圭一 → 仲村秀生を起用し「シオノギはあなたの健康に奉仕するため 今日もたゆみない努力をつづけています」と銘打ち、総合ビタミン剤のポポンS、総合感冒薬(カプセル剤)のパイロンカプセル(現在はパイロンMX。なお、風邪が比較的少ない冬以外の季節は放送がなかったこともある)、解熱鎮痛剤のセデスA錠(現在は新セデス錠)の3つをセットとして、薬店で手に入る市販薬(OTC医薬品)の宣伝をミニ・インフォマーシャル形式でオンエアしていた(薬の紹介についてのナレーションは宮崎総子 → 北浜晴子が担当した)。本編終了後のエンディングでは、シオノギの社章である分銅マークについての説明を述べるCM、という構成になっていた。, 1970年代当時、日本のテレビ業界では、まだCMにおけるBGMの必要性を認識していた人物が少なかったことや、映像機材が高価であったことに加え、宣伝にも多額の費用がかかる時代だったこともあり、この番組でのシオノギのスポンサークレジットの読み上げや、CMは全て無音映像ならびに、スチル画像の連続による映像の構成、野田圭一 → 仲村秀生と宮崎総子 → 北浜晴子によるナレーションのみで放送されていた。なお、『ミュージックフェア』開始初期の1971年頃まではスチル映像ではなくフィルム構成の映像が使われていたが、バックが無音で、ナレーションが入る構成はこの頃から変わっていない。, 番組内で流れるCMは、その後、1983年は上記の構成を踏襲しながらも、スキャニメイトを用いたVTR形式に変わりBGMも追加された。1984年からは現在の一般的なCM放映に変更されたが、1997年3月までの番組開始ならびに番組終了の際のスポンサークレジットの読み上げは、2001年4月に「ミュージックフェア21」として土曜18時枠へ移動するまで、依然として無音ならびに固定画面映像という状況が続いた。, 更に2009年10月以降、番組終了の際のスポンサークレジットの読み上げは、地上アナログ放送がセミレターボックスでの放送に移行後も、依然として歌手やシンガーソングライターやアーティストなどの人たちがスタジオで歌っている固定画面映像、という状況が今も続いている。, なお、2001年の『ミュージックフェア21』のスタートと同時に、同社のローマ字表記であるSHIONOGIから「SONG(ソング)」を取り上げた、歌とクスリをテーマにした「SONG For You(ソング・フォー・ユー)」という企業CMを放送中である(三原徹司 → 磯部弘のナレーション付)。この時はこれに加え、「SONG For You」のキャッチフレーズが、個々の製品CMにも使用されていたが、2013年6月に当社の公式サイト及びセデス・ハイのCMがリニューアルしたことを皮切りに、この前述の企業CM及びポポンSプラスのCMを除いてキャッチフレーズを外していた。2015年3月以降は「クッションコレクトEZ」のみだったが、同年11月は「コレクトXYLクリーム/さわやかコレクトW抗菌」のCMにもキャッチフレーズを付加しており、2016年4月から2019年まではシオノギ製薬のロゴ部分をシオノギヘルスケアに差し替えしただけであるためキャッチフレーズはそのままである。, 当番組の出演では、同業他社のCM出演中の歌手は原則として出演していないが、同業他社契約中であってもシオノギが手がけていない製品の場合、歌手の出演は可能となっている。また、2001年から2016年3月までの司会者だったホンジャマカの恵俊彰の場合は、相方の石塚英彦が同業他社(第一三共ヘルスケア)の一般用胃腸薬のCMに出演しているものの、グループではなく個人で扱っている関係上、恵が出演していないため問題はないとしている。, 前述の『ミュージックフェア』のスポンサーを長年にわたって担当していることもあり、フジテレビとの関係[40]は非常に密接で、『ミュージックフェア』以外にも、現在も提供している『FNSの日(タイトルはその年により異なるが、2002年以降は基本的に『FNS27時間テレビ』と称している)』や、過去には『笑っていいとも!』や『クイズ!ヘキサゴン』などのスポンサーを担当したこともあった。, なお、コンシューマーヘルスケア事業がシオノギヘルスケアへ分社化された2016年4月以降、『ミュージックフェア』のスポンサークレジットは従来通り「シオノギ製薬」のままだが、同年7月に放送された30回目の『FNSの日』である『FNS27時間テレビフェスティバル!』のスポンサークレジットは「シオノギヘルスケア」となった。, 『ミュージックフェア』に続き、1968年から1981年まで、東京12チャンネル(現:テレビ東京)系列局にて、文藝春秋の協力により、各界著名人の生涯を八木治郎の司会で紹介した『人に歴史あり』の一社提供を務めた。, 1992年-1994年までF1のチーム・ロータスのスポンサーとなり、1995年からは全日本F3000(翌年よりフォーミュラ・ニッポンに移行)のノバエンジニアリングのメインスポンサーを務め、「SHIONOGI TEAM NOVA」として1999年まで参戦している。, マシンには“SHIONOGI”のロゴが貼られていたが、“新ポポンS”という日本語のロゴを貼ることもあった。また、その当時の「ポポンS」のテレビCMにマシンの走行シーンを使用している。当時チーム・ロータスのドライバーだったミカ・ハッキネン、ジョニー・ハーバートがCMの走行シーンに登場している。, 1966年、「シオノギ・テレビ劇場」と「ミュージックフェア」の提供に対し、第3回ギャラクシー賞 テレビ・個人部門を受賞[41]。, 同社が本社を置く大阪のFM局として知られる、FM802で土曜朝6時から12時まで放送されている『SATURDAY AMUSIC ISLANDS』で午前8時から9時半までのパート、「SHINOGI SOUND FREEWAY」のスポンサーを担当していた(1990年代から2005年頃まで)。元々FM802は関西のテレビ局、毎日放送[42]が主要株主であることもあり(同社は関西の放送局の中では、毎日放送との関係が密接で、平日昼の時間にはCMが多数放送されている)、その経緯でスポンサーを担当しており、他にも毎日放送の制作で、TBS系列局で全国放映されていた『すてきな出逢い いい朝8時』、1994年から1999年までの『毎日甲子園ボウル』(全国ネットでの放送は2007年まで続いた)のスポンサーを担当していた事もある。, 過去に健康増進時代→Oh!診→からだ元気科(日本テレビ系列)→beメディカル→鳥越俊太郎 医療の現場!(BS朝日), 近年では時代の変化もあり、かつてから付き合いの深いフジテレビと毎日放送との関係のみならず、他のテレビ局でも同社のテレビCMが積極的に放映されるようになっており、最近では朝日放送で長年に渡り、関西ローカルで放送され続けている『おはよう朝日です』[43]でスポンサーを担当するなどしている。, シオノギでは、社章の分銅マークの由来を説明した上で、「分銅は、「正確」「正直」「信頼」の象徴です」と記載している。「What is SHIONOGI」 SHIONOGI & CO.,LTD.(2011年3月からシリーズで発行), 1910年(明治43年)からの広告で、店名を「薬種貿易商 塩野義三郎商店」と表示するようになっている.