ところが前年はリーグNo.1の得点力を誇った打線が開幕戦で完封されると、そこから引き分けを挟んで8連敗。それでも4月下旬から持ち直し、5月27日の対阪神ダブルヘッダーではスコットが計4本塁打、12打点の大暴れを見せるなど、勝率を5割に戻して3位に浮かび上がった。 ところが新外国人の獲得が失敗に終わると、大杉もキャンプ終盤の故障が響いて精彩を欠き、開幕から8試合ノーアーチ。4月下旬には、養父である荒川博監督との「親子鷹」で注目されていた荒川尭が左目の視力減退を理由に引退を表明するなど、攻撃力は思うように上がらなかった。 / 夫婦百景 / チコといっしょに / 木馬座と遊ぼう / どんとこい、天才!



© 2015 - document.write(new Date().getFullYear()) Tokyo Yakult Swallows Baseball Club. 8月14日には森昌彦、植村義信両コーチの休養が発表され、17日に広岡達朗監督が辞任。残りのシーズンは佐藤孝夫ヘッドコーチが監督代行として指揮を執ったものの、その間も17勝24敗4分けという成績で、8年ぶりの最下位に終わった。

打線は若松勉が初めて打率3割を逃したものの、ロジャーがリーグ7位の打率.292、27本塁打で初のベストナインを受賞。太平洋とのトレードで3年ぶりに復帰した福富邦夫も規定打席未満ながら打率.290、8本塁打と気を吐いたが、期待の大杉が打率.237、13本塁打に終わったのが痛かった。, 荒川監督休養、広岡新監督で出直し

監督代行として指揮を執った広岡達朗ヘッドコーチの下、5月13日には連敗を止めたものの、15日から今度は6連敗。26日の大洋戦に敗れ、ついに最下位に転落した。しかし、広岡監督代行が6月半ばに正式に監督に就任すると、7月に入ってようやく反撃を開始。8日からオールスターを挟み、安田猛、松岡弘の左右のエースで5連勝。これで最下位から抜け出すと、7月29日からは安田、松岡に加え会田照夫、浅野啓司で6連勝を飾った。 球団通算勝利 オールスターゲーム出場者. 球宴後は巨人と一進一退の攻防を繰り広げ、8月20日には4.5ゲーム差をつけられるが、26日からの直接対決3連戦を2勝1分けで制するなどジリジリと差を縮め、9月初旬に首位の座を奪回。9月17日にマジック14が点灯すると、19日からは3試合連続のサヨナラ勝ちで勢いに乗り、10月3日の中日戦に勝って初のリーグ優勝に王手をかけた。

6月初めにリーグ一番乗りで10勝に到達した安田は、自己最多の16勝で初めてチームの勝ち頭に。松岡も約3週間の離脱がありながらも、5年連続の2ケタ勝利となる13勝を挙げたが、前年まで2年連続2ケタ勝利の浅野啓司がわずか1勝に終わったのが大きな誤算だった。 投手陣では安田猛が自己最多の17勝で、3年連続4度目の2ケタ勝利。前年までプロ4年間で通算2勝の鈴木康二朗は14勝と大きく開花し、安田、梶間らとともにオールスターにも出場した。その梶間は後半戦は勝ち星が伸びず、7勝7敗1セーブ、防御率3.34(リーグ3位)で新人王には届かず。松岡弘は9勝止まりで、惜しくも7年連続の2ケタ勝利を逃した。 満塁本塁打 しかし、5月22日の阪神戦を浅野啓司の好リリーフでモノにすると、そこからの11試合で9勝2敗と反撃。6月は松岡、安田、浅野の3本柱で計10勝を挙げるなど、月間12勝10敗と勝ち越しに成功した。さらに7月3日からの大洋3連戦を、若松勉の2度のサヨナラ本塁打と松岡の完封で3タテし、ついに最下位から脱出。前半戦は巨人と同率の4位で折り返した。

直後の7連敗(2引き分け挟む)で4位まで後退したものの、5月に入って5連勝(2引き分け挟む)、7連勝(1引き分け挟む)と勝ちまくり、一気に借金を返済。6月3日にトップに返り咲くと、大洋、巨人と競り合いながら6月10日以降は首位の座を守り、球団史上初めて1位で前半戦を折り返した。

マニエルの代わりに四番に座った新外国人のスコットは、いずれもチームトップの28本塁打、81打点に加え、俊足を生かした守備範囲の広さでダイヤモンドグラブ賞を受賞。若松勉は4年連続の打率3割をマークし、負傷でスタメンを外れた7月11日の中日戦では通算3度目の代打サヨナラ本塁打を放った。さらに杉浦亨も自己最多の22本塁打と飛躍したが、前年のリーグ優勝&日本一に大きく貢献した大杉勝男とヒルトンが、大幅に成績を落としたのが痛かった。 前年までと違ったのは、そこからだ。5月25日からの10試合で主砲のロバーツが8本塁打と打ちまくり、この間に9勝1敗と大きく勝ち越し。うち8試合が1点差勝ちと「三原魔術」が冴え、勝率を再び5割に戻した。結局、6月は11勝7敗で乗り切り、7月に入るといきなり3連勝するなど、前半は首位の巨人に11.5ゲーム差ながら2位で折り返した。

打線では若松、マニエル以外にも、移籍3年目の大杉がリーグ6位の打率.329に31本塁打、104打点と本領を発揮。ただし、チーム打率は僅差でリーグ最下位と、防御率リーグ2位の投手陣と比べると、物足りなさが残った。, 創設29年目の飛翔、悲願の初V&日本一!

/ スワローズCafe / ヤクルトヘルシーブレイク, 代田稔 / 水野成夫 / 南喜一 / 松園直已 / 松園尚巳 / 相馬和夫 / 桑原潤 / 熊谷直樹 / 堀澄也 / 衣笠剛, ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株 / クロレラ / ヤクルトレディ / ヤクルト本社バレーボール部 / 世界水泳選手権 / 神宮外苑花火大会 / ヤクルトレビンズ / 埼玉ブロンコス / ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッド市原・千葉レディース) / ヤクルト野球アカデミー / ヤクルトバイオサイエンス研究財団 / ヤクルトグループ, http://www.law-pro.jp/mt/mt-search.cgi?blog_id=2&tag=%E6%9D%BE%E5%9C%92%E5%B0%9A%E5%B7%B3&limit=20, 【11月29日】1979年(昭54) 最下位のおわびに・・・ヤクルト“おじさん”クーラー担いで販売, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=松園尚巳&oldid=78966049, ブラジルの大邸宅を購入したとき、その家にあったステンドグラスだけを日本で売りその邸宅を購入したばかりか、その付近の教会をまるごと購入した. 「ヤクルト球団」誕生も苦難の年に さらに9月10日から3連勝で4位に浮上すると、19日からは6連勝でついに借金を完済。9月28日の巨人戦を松岡、安田の継投でモノにして初の貯金を作るも、快進撃はそこまでだった。その後は負けが込み、11年ぶりの勝率5割はならなかったが、4年ぶりの4位でシーズンを終了。二軍はイースタン連覇を果たした。

セ・リーグ6球団の中ではしんがりで臨む日本シリーズの相手は阪急。4年連続日本一を狙う王者を相手に初陣の燕が3勝3敗と善戦し、勝負の行方は第7戦に委ねられた。その最終戦、5回に1点を先制したヤクルトは、続く6回に大杉勝男の左翼ポールを超える特大弾で1点を追加するが、このホームランの判定に阪急の上田利治監督が抗議して試合は1時間19分に渡って中断。しかし、再開直後にマニエル、8回には大杉がこの日2本目の本塁打を放つと、先発の松岡は長時間の中断にも集中力を切らすことなく136球で完封。国鉄球団として産声を上げてから29年目にして、ヤクルトがついに日本一まで上りつめた。 1960年代

新人選手(ドラフトおよびその他)



前半戦の快進撃を支えたのが、新外国人のヒルトンだった。開幕から一番に座り、独特のクラウチングスタイルで快打を連発。5月5日には打率を.376まで上げてトップに躍り出るなど、常に高打率をキープして鈴木康二朗、角富士夫、若松勉とともにファン投票でオールスターに選ばれた(その他、井原慎一朗と大矢明彦が監督推薦で出場)。

2010年代, 年度別成績 後半戦になっても投打の歯車が噛み合わず、8月18日にシーズン2度目の11連敗を喫したところで、ついに別所毅彦監督が解任。小川善治コーチが監督代行として後を継いだものの負の連鎖は止まらず、23日の大洋戦に敗れてセ・リーグ新記録の15連敗、さらに25日の中日戦も落としてプロ野球タイ記録(当時)の16連敗という屈辱を味わった。結局、小川代行でもチームが上向くことはなく、国鉄・サンケイ時代を通じて球団史上ワーストの借金59、勝率.264で苦難のシーズンを終えた。 サイクルヒット 最終的にはセ・リーグ2連覇の巨人に15ゲーム差をつけられたとはいえ、シーズン2位は球団史上最高位。それだけにカード別で巨人にだけ7勝19敗と負け越したのが、大いに悔やまれた。

投手陣は開幕投手を務めた石岡康三と、浅野啓司が6勝ずつを挙げたのが最多で、2ケタ勝利ゼロは球団史上初。前年まで4年連続2ケタ勝利の石戸は3勝15敗と大きく負け越し、期待の松岡弘、藤原真もそれぞれ4勝、1勝と伸び悩んだ。 / 夫婦百景 / チコといっしょに / 木馬座と遊ぼう / どんとこい、天才! 打線は2年目のペピトーンがオープン戦になっても来日する気配を見せず、ロペスも前年限りで退団と、大砲不在で開幕を迎えていた。そこで前年のオフに太平洋を解雇されていたロジャー(太平洋時代の登録名はレポーズ)を獲得すると、打率こそ.232ながらチーム最多の25本塁打とパワーを発揮。思わぬ拾い物となった。そのロジャーとともにクリーンアップトリオの一角を担った若松勉は打率.312で3年連続の打撃10傑入りととともに、ベストナインも3年連続で受賞。加えて自己最多の20本塁打と、パンチ力も見せつけた。

初の開幕投手を託された松岡弘の完投勝利で白星発進すると、そこから2カード連続の勝ち越しと出足は良かった。続く4月18日の中日戦も松岡の3度目の完投でモノにして、この時点では巨人と同率の首位。しかし、その後は負け越しが続き、4月下旬から5連敗を喫して一気に最下位に転落した。 1980年代 / スワローズCafe / ヤクルトヘルシーブレイク, 代田稔 / 水野成夫 / 南喜一 / 松園直已 / 松園尚巳 / 相馬和夫 / 桑原潤 / 熊谷直樹 / 堀澄也 / 衣笠剛, ラクトバチルス・カゼイ・シロタ株 / クロレラ / ヤクルトレディ / ヤクルト本社バレーボール部 / 世界水泳選手権 / 神宮外苑花火大会 / ヤクルトレビンズ / 埼玉ブロンコス / ジェフユナイテッド市原・千葉(ジェフユナイテッド市原・千葉レディース) / ヤクルト野球アカデミー / ヤクルトバイオサイエンス研究財団 / ヤクルトグループ, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=堀澄也&oldid=72130717. さらに9月4日からは首位の巨人を敵地・後楽園で3タテするなど4連勝をマーク。そのまま5位でシーズンを終えたが、7月以降は投打の歯車が噛み合って33勝31敗6分けと勝ち越し、翌年に期待を抱かせた。 松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年7月15日 - 1994年12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた[1]実業家。双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已。, 長崎県南松浦郡三井楽町(現・五島市)出身。法政大学工業学校を卒業し、法政大学専門部を中退。長崎市で乳酸菌飲料「ヤクルト」の販売を始め長崎ヤクルトを設立。1956年、関東ヤクルト製造を設立。1967年、ヤクルト本社の社長に就任(1988年3月まで21年)。1969年3月、経営が行き詰った産経新聞社からサンケイアトムズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)を買収し、同球団のオーナーに就任する。, 長崎地区のヤクルトの一販売業者からスタートし、全国のヤクルト業者を説いて回り一大組織に統合、1956年、製造・販売各社を統合した本社を設立。女性販売員の宅配システムで同社を成長させる。化粧品・薬品事業にも進出、多角化を図る。ヤクルトは、もともと特定の創業者の手によって事業化されたものではなく、代田稔が京大医学部で学んでいたときに、特殊乳酸桿菌の発見・育成に成功し「ヤクルト」の登録商標をした。代田はヤクルトの普及を願い製造・販売権を望む者に分け与え全国にヤクルトを扱う業者が現れた、松園も長崎地区の一業者だった。, 1977年、長崎新聞社の社長に就任し、1988年まで務める。地方版を充実させ、プロ野球公式戦開催、県観光連盟とタイアップした「新観光百選」の制定などに取り組んだ。, 1988年、病で倒れ実質上の球団経営は本社の副社長・桑原潤が取り仕切ることになる(桑原は1988年4月松園に代わり本社の社長に就任。翌1989年10月、球団オーナー代行に就任)。, 現役を退いた後でも、ヤクルトの大株主である(松園尚巳の資産管理団体「松尚」は、全体第2位の保有)。, ダイヤル110番 / ハイ!次の方 / ごめんやす御用だ! 堀 澄也(ほり すみや、1935年4月27日 - )は、実業家。ヤクルト代表取締役会長、東京ヤクルトスワローズのオーナーを務めた。, 広島県福山市出身。日本大学法学部卒業後、1960年ヤクルト本社入社。中央研究所所長などを歴任し、ジョアなどの新商品開発に携わる。, 1996年、桑原潤の後を受けて同社代表取締役社長就任。1998年に副社長の熊谷直樹がプリンストン債を巡るデリバティブ(金融派生商品)取引の失敗で1000億余の巨額の損失を出していたことが発覚し、苦境に追い込まれたが、ダノンとの提携により何とか再生への道筋を付けた。, 1997年からヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)の取締役も兼務し、2003年は松園直已に代わり球団オーナーに就任。球団運営については、球団社長の衣笠剛をオーナー代行に指名して権限を委ねている。2017年6月21日、本社会長および球団オーナーを退任した。, ダイヤル110番 / ハイ!次の方 / ごめんやす御用だ!

三原脩監督就任2年目を迎え、次々にトレードを敢行。前年、投打の“二刀流”で話題を呼んだ外山義明、1968年秋のドラフト1位右腕の藤原真、控え内野手の溜池敏隆らを放出し、代わりにロッテから4年連続20本塁打のロペス、東映から2ケタ勝利3度の田中調、そして巨人と西鉄でオールスター出場5回の船田和英らを獲得した。

2桁勝利投手

投げてはルーキーの安田が防御率2.08で、国鉄時代の金田正一以来、球団14年ぶりの最優秀防御率を獲得。1952年の佐藤孝夫、1967年の武上四郎に次いで、チーム史上3人目の新人王も受賞した。また、松岡は2年連続チームトップの17勝でエースとしての地位を確立し、西井も自己最多の9勝と健闘した。, 三原監督最終年はVに“最接近”の4位 3割達成打者 / かしましやでェ!

開幕投手 父: 母: 妻: 男:松園尚巳 男:松園尚巳 松園直巳 1922年 誕生 1969年 ヤクルト本社入社 1987年 ヤクルト本社副社長 1991年 ヤクルト本社副会長 1995年 ヤクルト本社相談役 1998年 ヤクル



ただし、その船出は芳しいものではなかった。巨人との開幕3連戦は2敗1分けに終わると、4月13日の阪神戦から5連敗を喫するなど、4月は最下位。その後も5月、6月と月間負け越しが続き、上位進出の足がかりをつかむことができなかった。

1990年代 チーム再建の切り札として、巨人、西鉄、大洋を優勝に導いた“知将”三原脩監督を招聘。その娘婿の中西太をヘッドコーチに据える新体制で、巻き返しを図った。 完全試合および無安打無得点試合 サヨナラ本塁打 最終更新 2019年1月12日 (土) 19:30 (日時は個人設定で未設定ならばutc)。; テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。 追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。; プライバシー・ポリシー 人も地球も健康に。ヤクルト本社のホームページでは、商品情報、cm情報、宅配センターの検索や工場見学のご案内など、様々な情報を皆さまにお届けしていきます。 ※パートYL(ヤクルトレディ)を除く, (1)ヤクルト乳製品乳酸菌飲料・はっ酵乳の販売. それでも左のエース安田猛が4月だけで5勝を挙げるなど投手陣を引っ張り、5月半ばまで5割前後の勝率をキープ。すると5月15日から引き分けを挟み6連勝で、一気に首位に躍り出た。さらに29日から今度は引き分けを挟んで4連勝をマークして貯金を7に増やし、2位に2ゲーム差をつけた。



打線では前年の首位打者の若松が打率.313でリーグ2位に食い込むも、そのほかの打者は軒並み苦しんだ。開幕は四番に座ったロペスは打率.233、11本塁打と精彩を欠き、6月には「大物メジャーリーガー」のペピトーンを補強。代わりに衰えの見えたロバーツをシーズン途中で近鉄に放出したが、ペピトーンはわずか14試合の出場に終わるなど戦力にはならなかった。, 「ヤクルトスワローズ」で13年ぶりのAクラス

その後半戦はエースの松岡弘に加え、3年目の西井哲夫とルーキーの安田猛が投手陣を引っ張った。松岡は7月30日にプロ5年目で初めて巨人に完封勝ち。8月5日には安田が大洋戦でプロ初完封をマークすると6日は西井が完封、7日は松岡が完投と、この3人で3連勝を飾った。 しかし、その直後に4連敗、6月8日からは本拠地・神宮で大洋に3タテされるなど再び4連敗を喫して最下位に逆戻り。19日の広島戦から引き分けを挟んでシーズン2度目の8連敗を記録すると、その後は浮上の兆しすら見せることができなかった。 来歴・人物.

その勢いは後半戦に入っても衰えず、8月21日の中日戦に勝って勝率5割到達と同時に3位へ浮上。まれに見る大混戦の中、9月初旬には2位に立ち、首位まで2.5ゲーム差と悲願の初優勝も夢ではない状況になっていた。だが、8日から甲子園で阪神に連敗すると、次第に上位陣に離されていき、最終的には勝率5割にわずかに届かず4位。それでもV9を達成した巨人とは4.5ゲーム差と、球団史上でも最も優勝に接近したシーズンとなった。



投手陣では梶間健一がプロ3年目にして初の2ケタ勝利を挙げたものの、前年まで2年連続2ケタ勝利の鈴木康二朗が8勝、移籍の神部が6勝、安田猛はヒザの故障もあってわずか1勝と、その他のローテーション投手は揃って振るわず。エースの松岡弘は抑えも兼ねてチーム最多の13セーブと気を吐いたが、先発では開幕から3連敗を喫するなど、勝ち星は1ケタにとどまった。, 1950年代 2000年代

/ かしましやでェ!

後半戦は2年目の外国人、マニエルのバットが火を噴いた。8月29日からは14試合で12本塁打というハイペース。9月3日のヤクルト戦で通算756号本塁打を放ち、「世界の本塁打王」になったばかりの王貞治(巨人)を猛追し、9月15日の時点では42本でピタリと並んでタイトル獲得の期待も抱かせた。その後は本数が増えず、マニエルの本塁打王は幻となったが、一方で若松は張本勲(巨人)との熾烈な争いの末、打率.358で首位打者を獲得。これは若松にとって、5年ぶり2度目の栄誉となった。 投手陣では前半戦だけで9勝した松岡が、自身初の2ケタとなる14勝でエース格にのし上がった。打線ではロバーツが7月28日の中日戦で外国人としては史上初の通算150本塁打を達成し、シーズン33本塁打と復活。武上四郎が打率.272でベスト10に滑り込み、ルーキーの若松勉は規定打席未満ながら打率.303をマークした。一方で、前年暮れに大洋から“三角トレード”で獲得した荒川尭は、開幕から1ヶ月の出場停止もあって本領発揮とはならなかった。, 若松が球団初の首位打者、安田は新人王に

待望の新外国人として前ドジャースのマニエルを獲得。大杉勝男、ロジャーとの新クリーンアップトリオで巻き返しを図った。前年に続いて本拠地・神宮で迎えた開幕戦では、大杉を欠きながらもさっそく打線が火を噴き、巨人との打ち合いの末に6対6の引き分け。だが、4月10日から4連敗したかと思えば15日からは逆に4連勝するなど不安定な戦いが続き、5月6日から5連敗を喫したところで、荒川博監督の休養が発表された。 前年は初めて打率3割を切った若松は、終盤まで激しい首位打者争いを演じるなど自己ベストの打率.344で2年ぶり4度目のベストナインに選出。7月9日の中日戦では球団史上2人目のサイクルヒットを達成した。移籍1年目は不振にあえいだ大杉勝男も、打率.300、29本塁打と鮮やかに復活。ロジャーも自己最多の36本塁打と量産したが、マニエルは6月下旬から2ヶ月近く戦列を離れるなど、11本塁打に終わった。また、17年目のベテラン、船田和英は正三塁手に返り咲いて10月に通算1000安打を記録。シーズンでは自身初の打率3割到達で、カムバック賞に輝いた。 投手陣は2年連続最優秀防御率の安田(2.02)を筆頭に、4位松岡(2.23)、6位浅野(2.38)と3人が10傑入りし、チーム防御率2.60はリーグ1位。松岡は球団史上3人目の20勝到達を成し遂げ、巨人から6勝して「巨人キラー」の異名を取った浅野はプロ7年目で初の2ケタ勝利を挙げた。安田は終盤の戦線離脱で勝ち星こそ10勝止まりだったが、81イニング連続無四球の日本新記録を樹立した。 だが、その後に4連敗を喫して首位の座から転落。阪神、広島、中日との激しい争いの中で一度はトップに返り咲くも、6月下旬にその座を明け渡すと、再び首位に浮かび上がることはなかった。8月半ばには、先発に抑えに大車輪の活躍を見せていたエースの松岡弘が故障で離脱。シーズン前半は接戦に競り勝っていたのが、後半は一転して1点差ゲームに3勝19敗と大きく負け越し、2年連続Aクラスにも届かなかった。



広島県 福山市出身。 日本大学法学部卒業後、1960年 ヤクルト本社入社。 中央研究所所長などを歴任し、ジョアなどの新商品開発に携わる。 堀 澄也(ほり すみや、1935年 4月27日 - )は、実業家。 ヤクルト代表取締役会長、東京ヤクルトスワローズのオーナーを務めた。.

ヤクルト元副社長主導の財テク解明へ 「プリンストン債」購入の見返りに、ヤクルト本社の熊谷直樹・ 元副社長(69)が五億三千万円のリベートを受け取った脱税事件 で、東京地検特捜部は二十六日までに、元副社長を事情聴取した模 様だ。 ヤクルト本社[2267]の役員をチェック!Ullet(ユーレット)は、バリュー投資家や就職・転職活動中の方、企業の広報・IR・経営企画の担当者様など、上場企業に関する情報を調べたい方に最適な企業価値検索サービスです。

20本以上本塁打打者 3年契約で入団した三原脩監督の最終年。開幕戦ではセ・リーグ9連覇を狙う巨人を相手に打線が3本塁打を含む14安打と爆発し、エースの松岡弘から安田猛へ繋ぐリレーで幸先のいいスタートを切った。ところが4月19日の阪神戦から7連敗すると、5月3日からは2引分けを挟んで10連敗。この時点で勝率は2割を切り、首位から11ゲームの大差で最下位に沈んでいた。

松園 尚巳(まつぞの ひさみ、1922年 7月15日 - 1994年 12月15日)は、ヤクルト本社名誉会長、ヤクルトスワローズの初代オーナー、 長崎新聞社長、長崎文化放送初代代表取締役会長を務めた 実業家。 双子の兄は同じくヤクルトスワローズのオーナーを務めた松園直已 打線は2年目のチャンスがオープン戦でヒザを痛めた影響でシーズンを通して精彩を欠き、これにつられるように主砲ロバーツも不振に陥った。リーグ打撃10傑入りは皆無で、武上四郎が打率.265で12位に食い込むのが精一杯。それでも小川監督代行就任後に盗塁数を伸ばした東条文博が、球団13年ぶりの盗塁王に輝いた。また、年末には前年のドラフトで1位で指名された大洋への入団を拒んで“野球浪人”していた早稲田大出身のスター、荒川尭を三角トレードで獲得し、話題を集めた。, 三原監督就任、外山の“二刀流”が話題に

そして迎えた10月4日の中日戦、本拠地・神宮を埋めた4万3000人の大観衆の前で、序盤から打線が火を噴いた。ヒルトンの先頭打者アーチを皮切りに、杉浦亨の2ランなどで大量リードを奪うと、投げてはエースの松岡弘が中日打線を完封。最後の打者が併殺に倒れたのを合図に、ベンチからはナイン、そしてスタンドからはファンが次々にグラウンドへなだれ込み、就任以来厳しい姿勢でチームを率いてきた広岡達朗監督が、その大きな歓喜の輪の中で宙に舞った。

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