主に日本史について「なぜ」と「流れ」を切口に語ります。日頃の授業や試験対策に“御参考”程度に読んで下されば嬉しいです!

256–58. !最近は更新していません(笑)がみなさんの疑問・質問を募集中!第二次大戦後から現在まで戦後史についてもどうぞ聞いてください☆, 今回は、次にお話します『高度経済成長』の下準備と言うことで、テーマ『冷戦から雪どけへ』をやっていきます。この分野は 『現代社会』 も含みますが、日本史でも出る所ですから、しっかりやっていきましょう pp. 4.1 再び起こる対立と第三世界; 5 冷戦の終結.

デジタル大辞泉 - デタントの用語解説 - 《緩和の意》緊張緩和。特に、第二次大戦後、冷戦とよばれる対立関係にあった米ソ両国や欧州の東西両陣営が、1970年代に平和的共存を目指して試みた協調的な動き … The United States and Western Europe, 1945-1952”, Anders Stephanson, “Rethinking Cold War History.”.

冷たい戦争/冷戦/東西冷戦. 1 馬車や農機などの車輪が動かないよう、所定の穴に指して固定するピン。2 (比喩的に)物事の要(かなめ)。... 「コトバンク」は朝日新聞社の登録商標です。「コトバンク」のサイトの著作権は(株)朝日新聞社及び(株)VOYAGE MARKETINGに帰属します。 Geir Lundestad, “Empire by Invitation? を見ておいて下さいネ。 村嶋英治「タイにおける政治体制の周期的転換ー議会制民主主義と軍部の政治介入」、萩原宜之・村嶋英治編『ASEAN諸国の政治体制』、アジア経済研究所、1987年、pp.135-190. p. 158. In Search of a Peace Settlement: Egypt and Israel Between the Wars, 1967-1973. Moshe Gat (2012).

M.E. 5.1 ソビエト連邦の崩壊; 6 冷戦後の世界の動き.



6.1 ポスト冷戦時代; 6.2 米中新冷戦の始まり? 〘名〙 (détente 緩むの意) 緊張緩和。特に一九七〇年代、緊張状態にあった米ソ両国や、欧州での東西両陣営がその関係を改善し、平和的共存を目指そうとした政策。.

これはタイにおける、超法的な措置を伴う政変(革命、クーデター、反乱など)のリストである。なお、未遂で発覚したものを含む。, アユタヤ王朝以前についてはラーンナー王朝などのアユタヤの覇権下にない地方政権が乱立していたことや、地域をアユタヤのみに限っても記録されているだけで数限りなくあり、史料によっても年代が違ったりと煩雑になるため避ける。, http://jp.reuters.com/article/idJPTYE7AT03420111130, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=タイにおける政変一覧&oldid=76473433, 未遂。首謀者達100余名が逮捕された。革命の後、立憲君主制か共和制を導入するかを首謀者たちが酔っぱらいながら議論していたところを、察知され、, プリーディーの発表した政策『経済計画大綱』が共産主義的であるとして、国会が混乱。国会閉鎖。憲法停止。共産主義の非合法化。, 王族、政治家ら51名に、1938年に起こったピブーン暗殺未遂事件の容疑をかけ処刑。お座成りな裁判により18名が死刑、25名が終身刑。プラヤー・ソンスラデートは海外逃亡した。ピブーンによる, 海軍ラジオで新政権樹立を発表。ピブーンを暗殺しようとして失敗した。関係者が逮捕され、海軍の規模は縮小され、以降クーデターの主体となることはなくなる。, 大規模なデモが発生し、陸軍の攻撃により死傷者が出る流血事件に発展。野次馬も多くいたことが指摘され、携帯電話を持っているほどの中流以上の集団であったため「携帯電話族」とあだ名された。この後国王, 大規模なデモが発生し、陸軍の攻撃による多数の死傷者が出る流血事件に発展。死者24名(うち1名は. 第二次世界大戦後の世界情勢を規定する東西冷戦は、1970年代に入って緊張緩和(デタント)が進み、75年のヘルシンキ宣言を最も大きな成果として生み出し、その様相を大きく変化させていたが、70年代の終わりに米ソ両国の間の緊張関係にもどってしまった。

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《 米ソの軍備拡大競争 》 冷戦(れいせん、英: Cold War、露: Холодная война)もしくは冷たい戦争(つめたいせんそう)は、第二次世界大戦後の世界を二分した西側諸国のアメリカ合衆国を盟主とする資本主義・自由主義陣営と、東側諸国のソビエト連邦を盟主とする共産主義・社会主義陣営との対立構造。米ソ冷戦や東西冷戦とも呼ばれる。, 1945年から1989年までの44年間続き、アメリカ合衆国とソビエト連邦が軍事力で直接戦う戦争は起こらなかったので、軍事力(火力)で直接戦う「熱戦」「熱い戦争」に対して、「冷戦」「冷たい戦争」と呼ばれた。「冷戦」という語は、ジョージ・オーウェルがジェームズ・バーナムの理論を評した時に使っており[1][2][3]、後にバーナード・バルークも使い[4]、アメリカの政治評論家ウォルター・リップマンが1947年に上梓した著書の書名『冷戦―合衆国の外交政策研究』に使用されたことから、その表現が世界的に広まった。, 各陣営とも構成国の利害損得が完全に一致していたわけではなく、個別の政策や外交関係では協力しないこともあったなど、イデオロギーを概念とした包括的な同盟・協力関係である。, 冷戦での両陣営の対立の境界であるヨーロッパにおいては、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営が東ヨーロッパに集まっていたことから「東側」、対するアメリカ合衆国を盟主とした資本主義陣営が西ヨーロッパに集まっていたことから「西側」と呼んで対峙した。その対立は軍事、外交、経済だけでなく、宇宙開発や航空技術、文化、スポーツなどにも大きな影響を与えた。又、冷戦の対立構造の中で西ヨーロッパは統合が進み、欧州共同体の結成へ向かった。ヤルタ会談から始まってマルタ会談で終わったため、「ヤルタからマルタへ」ということもいわれる。, ヨーロッパのみならず、アジア、中東、南アメリカなどでも、それぞれの支援する機構や同盟が生まれ、世界を二分した。この二つの陣営の間は、制限されているがために経済的、人的な情報の交流が少なく、冷戦勃発当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、「鉄のカーテン」と表現した。, アメリカ陣営とソ連のどちらにも与しない国家は「第三世界」と呼ばれ、それぞれの陣営の思惑の中で翻弄された。しかし、こうした両陣営の思惑を逆手に取り、両陣営を天秤に乗せることで多額の援助を引き出す「援助外交」も活発に行われた。また、この米ソ両陣営の対立構造を「大国の覇権主義」と否定した国々は、インドなどを中心に非同盟主義を主張し、第三世界の連帯を図る動きもあった(といっても有名無実である国も多かった)。なお、経済発展が進んだ開発途上国が「第三世界」と呼ばれ、経済発展が遅れている開発途上国は「第四世界」と呼ばれることもある。, の3点に特徴付けられる。最終的には1991年に東側諸国の盟主であったソビエト連邦が消滅したことにより、日米西欧をはじめとする西側陣営の勝利に終わった。冷戦が終わると、リーマン・クライシスが引き金となった2008年の世界金融危機までは、米国が唯一の超大国として君臨していた。しかし、2008年以後の世界は、冷戦体制や米国一極体制によって抑えられてきた民族紛争や地域紛争が続発し、かつ冷戦体制や米国一極体制に基づく価値観が破綻を見せ、変化が多くなって流動性を増している。, 冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼることができるが、超大国の対立という構図は、ヤルタ体制に求められる。, 主に欧州の分割を扱った、1945年2月のフランクリン・ルーズベルト(アメリカ)、ヨシフ・スターリン(ソ連)、ウィンストン・チャーチル(イギリス)によるヤルタ会談が、第二次世界大戦後の国際レジームを決定した。7月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。, 1946年、モスクワのアメリカ大使館に勤務していたジョージ・ケナンの「長文電報」はジェームズ・フォレスタル海軍長官を通じて、トルーマン政権内で回覧され、対ソ認識の形成に寄与した。後に、アメリカの冷戦政策の根幹となる「反共・封じ込め政策」につながった。, 戦争によって大きな損害を蒙っていた欧州諸国において、共産主義勢力の伸張が危惧されるようになった。特にフランスやイタリアでは共産党が支持を獲得しつつあった。戦勝国であったイギリスもかつての大英帝国の面影もなく、独力でソ連に対抗できるだけの力は残っていなかった。そのため、西欧においてアメリカの存在や役割が否応なく重要になっていった。1947年に入ると、3月12日にトルーマンは一般教書演説でイギリスに代わってギリシャおよびトルコの防衛を引き受けることを宣言した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」であり、全体主義と自由主義の二つの生活様式というマニ教的世界観が顕在化した。さらに6月5日にはハーヴァード大学の卒業式でジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパ復興計画(マーシャル・プラン)を発表し、西欧諸国への大規模援助を行った。こうして戦後アメリカは、継続的にヨーロッパ大陸に関与することになり、孤立主義から脱却することになった。, 東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、スロバキアにはソ連軍が進駐し、共産主義勢力を中心とする政府が樹立された。当初は、「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握った。ヤルタ会談で独立回復が約束されたポーランドでも、ロンドンの亡命政府と共産党による連立政権が成立したが、選挙妨害や脅迫などによって、亡命政府系の政党や閣僚が排除されていった。こうした東欧における共産化を決定付けるとともに、西側諸国に冷戦の冷徹な現実を突きつけたのが、1948年2月のチェコスロバキア政変であった。またその前年の10月にはコミンフォルムが結成され、社会主義に至る多様な道が否定され、ソ連型の社会主義が画一的に採用されるようになった。他方、ユーゴスラビアとアルバニアにおける共産党体制の成立において、ソ連の主導というよりも、戦中のパルチザン闘争に見られる土着勢力による内発的要因が大きかった。この点が、1948年のユーゴ・ソ連論争の遠因ともなり、共産圏からユーゴスラビアが追放され、自主管理社会主義や非同盟主義外交という独自路線を歩むことになった。, 枢軸国の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が4分割して占領統治した。占領行政の方式や賠償問題などでソ連と米英仏の対立が深まり、1949年、西側占領地域にはドイツ連邦共和国(西ドイツ)、ソ連占領地域にはドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立する。, ヤルタ会談の焦点の一つがポーランド問題であった。米英にとって、第二次世界大戦に参戦した直接的理由がナチス・ドイツのポーランド侵攻であり、ソ連にとって安全保障の観点から自国に友好的な政権がポーランドに樹立されることが望まれていた。いみじくもスターリンがミロヴァン・ジラスに述べたように、ポーランド問題とは、領土問題であると同時に政権問題という位相を含んでいた点で、第二次世界大戦の性格を如実に表象していた。, またポーランドがソ連軍によって解放されたことで、戦後のポーランド政治に対して、ソ連の影響力が大きくなる要因となった(敵国から解放した国家が占領において主導権を握るという「イタリア方式」がここでも作用していた)。ヤルタ会談で、米英はスターリンにポーランドでの自由選挙の実施を求め、同意を取り付けたが、スターリンが語ったとされるように、米英にとって「名誉の問題」である一方で、ソ連にとってポーランド問題とは「安全保障上の死活的問題」であったため、スターリンは強硬な姿勢を採った。, ルーズベルトの死後大統領に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知り、国連創設会議のため訪米中のソ連の外相ヴャチェスラフ・モロトフに対し抗議した。その後、アメリカとソ連は、対立するようになる(選挙が決まるまでの過程は、ヤルタ会談の「ポーランド問題」を参照のこと)。, ドイツの首都ベルリンは、その国土同様、4国で分割された。その結果ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に島のように位置することになった。冷戦対立が強まる中、ソ連は西側地区における通貨改革への対抗措置として、1948年に西ベルリンへ繋がる鉄道と道路を封鎖した(ベルリン封鎖)。これに対抗するため、西側連合国は物資の空輸を行って、ベルリン封鎖をなし崩しにした。そのため封鎖は約1年後に解かれた。, 冷戦は地球の反対側でも米ソが向き合うため、周辺のアジアにも強い影響を与えた。中国大陸では、戦後すぐにアメリカの支援する中国国民党とソ連の支援する中国共産党が内戦を繰り広げたが、中国共産党が勝利し1949年に共産主義の中華人民共和国を建国。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約を結んでソ連の同盟国となった。一方、アメリカの支援を打ち切られた中国国民党は台湾島に逃れた。また、中華人民共和国は朝鮮戦争に出兵することで、アメリカと直接対立して台湾海峡も冷戦構造に組み入られた。すでにモンゴルではソ連の支援の下で共産主義のモンゴル人民共和国が1924年に成立していたが、戦後になって米英仏等が承認した。, 日本が統治していた朝鮮半島は、ヤルタ会談によって北緯38度線を境に北をソ連、南をアメリカが占領し、朝鮮半島は分断国家となった。このため、1950年6月にソ連の支援を受けた北朝鮮が大韓民国へ突如侵略を開始し、朝鮮戦争が勃発した。朝鮮戦争には「義勇軍」の名目で中華人民共和国の中国人民解放軍も参戦し戦闘状態は1953年まで続いた。, フランス領インドシナでは、ベトナムの共産勢力が独立を目指し、第一次インドシナ戦争が起こった。1954年にフランスが敗北したため、ベトナムが独立を得たが、アメリカ合衆国は共産主義勢力の拡大を恐れ、ジュネーブ協定によって北緯17度で南部を分割し、アメリカ合衆国の傀儡の軍事政権が統治する南ベトナムを建国した。これは後のベトナム戦争の引き金となる。また、フランスとアメリカが強い影響力を残したラオス(1949年独立)、カンボジア(1953年独立)でも共産勢力による政権獲得運動が起こった。, これら共産勢力のアジア台頭に脅威を感じたアメリカは、1951年8月に旧植民地フィリピンと米比相互防衛条約、9月に一国占領していた旧敵国日本と日米安全保障条約、同月にイギリス連邦のオーストラリア・ニュージーランドと太平洋安全保障条約 (ANZUS)、朝鮮戦争後の1953年8月に韓国と米韓相互防衛条約、1954年に中華民国と米華相互防衛条約を立て続けに結び、1954年9月にはアジア版NATOといえる東南アジア条約機構(SEATO)を設立して西側に引き入れた他、中華民国への支援を強化した。また中東でも、アメリカをオブザーバーとした中東条約機構(バグダッド条約機構、METO)を設立し、共産主義の封じ込みを図った。, このように冷戦が進む中、1950年代前半のアメリカにおいては、上院政府活動委員会常設調査小委員会の委員長を務めるジョセフ・マッカーシー上院議員が、政府やアメリカ軍内部の共産主義者を炙り出すことを口実とした活動、いわゆる「赤狩り」旋風を起こし、多くの無実の政府高官や軍の将官だけでなく、チャールズ・チャップリンのような外国の著名人でさえ共産主義者のレッテルを貼られ解雇、もしくは国外追放された。, 1950年代にアメリカの総生産は世界の約4割、金と外貨の保有は約5割に上り、名実共に世界の盟主となっていた。このようなアメリカを中心とするアジア・太平洋の同盟は、戦禍を蒙らずに一人勝ちできたアメリカ経済によって支えられていた。, 1953年、スターリンが死去し、冷戦状態が緩和する兆しが見え始めた。同年に朝鮮戦争の休戦が合意され、1955年にはNATOに対抗するワルシャワ条約機構が結成、オーストリアは永世中立が宣言されて東西の緩衝帯となり、連合国軍が撤退した。またジュネーヴで米ソ英仏の首脳が会談し、ソ連と西ドイツが国交樹立、ソ連は翌年に日本とも国交を回復し、1959年にはフルシチョフがアメリカを訪問するなど、冷戦の「雪どけ」ムードを演出した。, この時期、東側陣営ではソ連の覇権が揺らぎつつあった。スターリンの後継者争いを勝ち抜いたフルシチョフは、1956年の第20回ソ連共産党大会でスターリン批判を行った。この演説の反響は大きく、ソ連の衛星諸国に大きな衝撃をもたらし、東欧各地で反ソ暴動が起きた。ポーランドでは反ソ暴動に次いで、国民の人気が高かったヴワディスワフ・ゴムウカが党第一書記に就き、ソ連型社会主義の是正を行った。ポーランドの動きに触発される形で、ハンガリーでも政権交代が起こり、ナジ・イムレが政界に復帰したが、国民の改革要求に引きずられる形で、共産党体制の放棄、ワルシャワ条約機構からの脱退、中立化を宣言するに至り、ソ連軍の介入を招いた(ハンガリー動乱)。, 一方、中華人民共和国はスターリン批判に反発した。1960年代にはキューバ危機や部分的核実験禁止条約でしばしば対立、ダマンスキー島事件などの国境紛争を起こすに至った。, 互いを常に「仮想敵国」と想定し、仮想敵国と戦争になった場合の勝利を保障しようと、両国共に勢力の拡大を競い合い、軍備拡張が続いた。この象徴的な存在が、核兵器開発と宇宙開発競争である。両陣営は、目には目を、核には核を、との考え方からそれぞれ核兵器を大量に所持するようになる。また、大陸間弾道ミサイルと共通の技術をもつロケットやU-2などの高高度を飛行する偵察機、宇宙から敵を監視するための人工衛星の開発に没頭し、国威発揚のために有人宇宙飛行と月探査活動を活発化した。, しかし、ソ連とアメリカの直接衝突は、皮肉にも核の脅威による牽制で発生しなかった。特に1962年のキューバ危機によって、米ソの全面核戦争の危機が現実化したため、翌年から緊張緩和の外交活動が開始されるようになったのである。, その一方、第三世界の諸国では、各陣営の支援の元で実際の戦火が上がった。これは、二つの大国の熱い戦争を肩代わりする、代理戦争と呼ばれた。また、キューバ危機を契機に「アメリカの裏庭」と呼ばれる中南米諸国に対する影響力を得ることを企てたソ連の動きに対し、アメリカはブラジルやボリビア、ウルグアイなど各国の親米軍事独裁政権への肩入れと共産勢力の排除を行い、その結果共産勢力の排除に成功した。しかし、その後冷戦終結までの永きにおいて、これらの中南米諸国では軍事政権による内戦や汚職、軍事勢力同士によるクーデターが横行し、民衆は貧困にあえぐことになる。, 1949年以降、分断状況が既成事実化しつつあったドイツ問題が暫定的な形とはいえ、「解決」を見たのが、1958年から始まったベルリン危機 (1958年)(ドイツ語版)であった。当時、東ドイツにおける過酷な社会主義化政策によって、熟練労働者や知識人層における反発が高まり、その多くが西ベルリンを経由して、西ドイツへと逃亡した。社会主義建設の中核となるべき階層の流出に危機感を募らせたウルブリヒトは、ドイツ問題の解決をフルシチョフに訴えるとともに、西側との交渉が挫折した際には、人口流出を物理的に阻止することを選択肢として提起した。フルシチョフの要求に対し、西側陣営は拒否の姿勢を貫いたため、1961年8月に、西ベルリンを囲む形で鉄条網が敷設され、後に壁へと発展した(ベルリン危機 (1961年)(英語版))。この当時、ベルリン市長を務めていたのが、1969年に首相として東方政策を推進したヴィリー・ブラントであった。彼の東方政策の背景には、ベルリン危機の経験が反映されていた。, キューバ危機によって核戦争寸前の状況を経験した米ソ両国は、核戦争を回避するという点において共通利益を見出した。この結果、米英ソ3国間で部分的核実験禁止条約、ホットライン協定などが締結された。しかし、部分的核実験禁止条約は中国・フランスが反対し、東西共に一枚岩でないことが明白となった。シャルル・ド・ゴール統治下のフランスは、アメリカ主導のNATOに反対し、1964年には同様に米ソと距離を置いていた中国を西側諸国では最も早く国家承認した。また、1967年にド・ゴールは外訪先であるカナダで開催されたモントリオール万国博覧会で、「自由ケベック万歳!」と演説し、今も続くケベック独立運動に火を付けた。, 米ソ両国の軍拡競争が進行し、ベトナム戦争を契機とする反戦運動、黒人の公民権運動とそれに対抗する人種差別主義者の対立などによって国内は混乱、マーティン・ルーサー・キング師やロバート・ケネディなどの要人の暗殺が横行して社会不安に陥った。第二次世界大戦終結時はアメリカ合衆国以外の主要な交戦国は戦災で著しく疲弊していたので、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は突出して大きかったが、戦災から復興した日本や西ドイツが未曾有の経済成長を遂げ、西欧が経済的に復活する中で、世界の経済規模に対するアメリカ合衆国の経済規模の比率は相対的に減少した。, チェコスロバキアはプラハの春と呼ばれる民主化、改革路線を取ったが、ソ連は制限主権論に基づきワルシャワ条約機構軍による軍事介入を行い武力でこれを弾圧した。なお、ニコラエ・チャウシェスク率いるルーマニア社会主義共和国はワルシャワ条約機構加盟国でありながらソ連の介入を公然と批判して独自路線を行い、アメリカなど西側諸国から巨額の援助を受けた。また、アルバニアはスターリン批判以来、中華人民共和国寄りの姿勢を貫いてワルシャワ条約機構を離れ、中華人民共和国はリチャード・ニクソンの訪中を契機にアメリカに近づいてソ連と決別、北朝鮮は主体思想を掲げてソ連から離反した。イタリア、スペイン、日本など西側諸国の共産党のうちいくつかはソ連型社会主義に反発し、ソ連の影響から離脱した(ユーロコミュニズム)。こうして今に至る共産主義の多極化が起こった。, 1960年代末から緊張緩和、いわゆるデタントの時代に突入した。米ソ間で戦略兵器制限交渉 (SALT) を開始、1972年の協定で核兵器の量的削減が行われ、緊張緩和を世界が感じることができた。, この頃には同じ共産陣営でありながらソ連と中国の路線対立はあらゆる方面で亀裂を生むようになってきており、中ソ国境紛争など実力行使を伴うほどになってきていた。印パ戦争は中ソの代理戦争の様相を呈した。, ソ連を牽制すると同時に、東アジアの平和を樹立することを狙い、リチャード・ニクソンがパキスタンの仲介により1972年に中華人民共和国を訪問し、中華人民共和国を承認して外交と貿易を開始し、東アジアにおける冷戦の対立軸であった米中関係が改善、1972年には日本が中華人民共和国と国交正常化した。, また、1973年に北ベトナムとアメリカは和平協定に調印し、アメリカ軍はベトナムから撤退した。アメリカは建国以来初の敗北を味わうことになった。その後1975年4月に南ベトナムの首都であるサイゴンは北ベトナムの手に落ち、同時にラオス、カンボジアでも共産主義勢力が政権を獲得し、インドシナ半島は完全に赤化された。, 一般市民の日常生活や仕事に役立つ多種多様な商品やサービスが開発・供給され、世界の経済、財政、貿易、投資、通貨発行は著しく拡大したので、金本位制と外国為替の固定相場制の維持が不可能になり、管理通貨制度と変動相場制に移行した。, ヨーロッパでは、1969年に成立した西ドイツのブラント政権が東方政策を進め、東側との関係改善に乗り出した。また1972年に、かねてからソ連が提案していたヨーロッパ全体の安全保障を協議する「ヘルシンキ・プロセス」が始まり、1975年に欧州安全保障協力会議の成立に繋がった。しかし核を削減する一方、ソ連は1977年から中距離弾道ミサイルを配備した。これに対抗し、アメリカは1979年12月に中距離核戦力 (INF) を西欧に配備すると発表した。また同じ月にソ連がアフガニスタンに侵攻したため、東西はまたも緊張し、デタントの時代は終焉した。, 中東では、第四次中東戦争が起き、主にソ連の支援するアラブ諸国が政治的な成果をおさめ、石油危機によって西側先進国に深刻な打撃を与えた。しかし、四度にわたる中東戦争を主導してきたエジプトは戦争前にソ連の軍事顧問団を追放し[5]、戦争後はソ連と関係断絶し、ソ連と対立するアメリカや中国から軍事的経済的援助を受け始め[6][7][8][9]、アメリカの主導でキャンプ・デービッド合意が成立し、さらにアメリカは西側に対する石油禁輸を主導したサウジアラビアがドル建て決済で原油を安定的に供給することと引き換えに安全保障を提供する協定(ワシントン・リヤド密約)を交わしてオイルダラーを確立することでドル防衛に成功し[10][11][12][13][14]、単純な米ソ対立が反映されてきた中東でも新たな冷戦の構図が生まれつつあった。, アフリカでは、1978年からエチオピアとソマリアの間でオガデン戦争が起こっていたが、エチオピアが1974年の軍事クーデターで社会主義を宣言したため、ソ連とキューバがエチオピアを、ソマリアをアメリカと中国とエジプトが支援した。アンゴラは1975年の独立直後から3つの武装勢力が対立し内戦となり、これに南アフリカとザイールとキューバが介入、間接的にソ連・中国・アメリカが援助を行い、泥沼となった。, 東南アジアでは、共産主義国家同士のカンボジア・ベトナム戦争が起き、ソ連寄りのベトナムの侵攻で親中国の民主カンプチアが崩壊するも民主カンプチアの亡命政府は中国・ASEAN・日本・アメリカの支援で国連総会の議席を保ち続け、タイとの国境でゲリラ活動を行ってカンボジア内戦は泥沼化した。, ラテンアメリカでは、チリにおいて民主的な社会主義政権を転覆したクーデターで成立したアウグスト・ピノチェト政権が中国とルーマニアを除く共産圏と断交し、親米軍事政権の南米諸国は共産主義勢力の排除で連携するコンドル作戦を立ち上げた。, ソ連は1970年代に世界的に勢力を伸ばし、統一ベトナム、カンボジア(親ベトナム政権)、ラオス、エチオピア、南イエメンの共産主義政府と協力関係を築き、アンゴラ、モザンビーク、ニカラグアなどで共産主義勢力に加担して紛争に介入し、シリアやイラクなどアメリカが近づきにくい国に接近し、友好関係を築いた。ソ連の影響力は1980年代にかけて第三世界に広がった。, 1978年に成立した共産主義政権を支えるために、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻した。このため、西側世論が反発して東西は再度緊張、影響は1980年モスクワオリンピックへの西側に加えて中国、さらにエジプトやサウジアラビア、パキスタンなど親米のアラブ・イスラム諸国も加わったボイコットとして現れた。東側は報復として、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットした。アメリカはCIAやチャールズ・ウィルソンらによる総額数十億ドル規模の極秘の武器供給などによる支援にてアフガニスタンの反共ムスリム武装勢力「ムジャヒディン」をエジプトやサウジアラビア、パキスタンなどとともに援助した[15]。また、ソ連と対立する中国も武器や訓練でムジャヒディンを支援した[16]。戦争を短期で終結させるソ連の目論見は外れ、侵攻の長期化によってソ連財政は逼迫し、アメリカは間接的にソ連を弱体化することに成功した。, 人々は、このアフガニスタンの騒乱によって、世界には東西の陣営とは別にもう一つの勢力があることに気が付き始めた。それはイスラム主義と呼ばれる勢力であり、二つのイデオロギー対立とはまったく異なる様相を呈した。アフガニスタンではアメリカはソ連を倒すために、この勢力を支援したが、1979年イラン革命の際には、国際法を無視してアメリカ大使館が1年余りにわたり占拠された。アメリカは大使館員救出のために軍を介入させたが失敗、アメリカ軍の無力さを露呈した(イーグルクロー作戦)。イスラム教を創始した預言者ムハンマドの子孫(サイイド)でイランの最高指導者となったルーホッラー・ホメイニーは「ソ連は小悪魔、米国は大悪魔」「我々は西でも東でもない」としてイスラム主義の時代を謳った[17]。, このイラン革命によってアラブ諸国や東西諸国は動揺し、1980年にイラン・イラク戦争となって火を噴いた。欧米ソ中はイスラム革命が世界に広がることやさらなる石油危機を恐れ、イラクを援助して中東最大の軍事大国に仕立てた。戦争は長期にわたり、1987年には米軍が介入したが、決着のつかないままに終わった。しかし、この時のアメリカによる中東政策が、後の21世紀の世界情勢に大きな影響を与えることになった。一方、ソ連は国内情勢の変化(下記参照)によって1989年には泥沼のアフガンから完全撤退、世界から急速にソ連の影響力が弱まりつつあった。, 1985年、ソ連共産党書記長に就任したミハイル・ゴルバチョフは、改革(ペレストロイカ)および新思考外交を掲げて、経済が疲弊した国内体制の改良と、予算案を大幅に削減した大胆な軍縮提案を行い、さらには西側との関係改善に乗り出す。, 1987年にアメリカとの間で中距離核戦力全廃条約 (INF) を調印した。この緊張緩和によって、両国の代理戦争と化していたオガデン戦争やアンゴラ内戦が1988年から順次終結し、リビアとフランスが介入したチャド内戦も終結した。カンボジア内戦も1988年から和平会議が開催された。, また、既に1980年代初頭から独立自主管理労働組合「連帯」が結成され民主化の動きが見られていたポーランドでは1989年の選挙でポーランド統一労働者党が失脚して政権が交代し、同様に東欧諸国の中でも比較的早くから改革路線を行っていたハンガリーやチェコスロバキアでもソ連式共産党体制が相次いで倒れ、夏には東ドイツ国民が西ドイツへこれらの国を経て大量脱出した。, 東ドイツはあくまで強硬な社会主義路線を取り民衆を抑え込もうとしたが、10月のライプツィヒで行われた月曜デモには10万人が参加し、事態を収拾できなかった社会主義統一党内部では、幹部であったエーリッヒ・ホーネッカーの求心力が低下し、まもなく総辞職に追い込まれた。後任の指導部も民主化を求める動きをせき止められず、東ドイツは政治・経済が崩壊状態に陥った。, このため、11月9日には東ドイツがベルリンの壁の開放を宣言、冷戦の象徴ともいうべきベルリンの壁が崩壊した。ルーマニアでも革命が勃発し、ニコラエ・チャウシェスク大統領夫妻が射殺され、共産党政権が倒された。これら東ヨーロッパの共産党政権が連続的に倒された革命を、東欧革命という。1989年12月には、地中海のマルタ島で、ゴルバチョフとジョージ・H・W・ブッシュが会談し、冷戦の終結を宣言した[18]。しかし、中国では六四天安門事件が起き、東アジアの共産党政権(竹のカーテン)では民主化ドミノが武力で抑制された。, 1990年8月に起きた湾岸戦争では、欧米ソ中が世界第四の軍事大国に仕立てたイラクのクウェート侵攻に対するアメリカ主導の武力行使容認決議にソ連は同調し、米ソで二極化してきた世界はアメリカ一極化への兆しが見え始めた。アメリカは、1990年8月のイラク軍によるクウェート侵攻(湾岸危機)を皮切りにアラビア半島に展開、翌1991年1月にイラクとの間で湾岸戦争に踏み切り、これに勝利した。湾岸危機の際に1991年1月中旬からイラクの要請を受けていたソ連の和平案が当時の欧州共同体外相会議で賛成され、翌日にイラクと無条件全面撤退で合意したが、ブッシュ大統領はこれを退けた(数日後、シュワルツコフがソ連案を修正して停戦が決まった)。イラクを下したアメリカは世界の盟主として自信を深め、その後はパレスチナ問題を中心に中東への関心と介入を深めていく。湾岸戦争はその後の世界情勢を形成する上で非常に重要だったといえる。, ソ連国内ではペレストロイカ路線は行き詰まりつつあった。バルト三国の独立要求が高まり、1988年11月にエストニア・ソビエト社会主義共和国が主権宣言、同年リトアニア・ソビエト社会主義共和国でもサユディスによる独立運動の加速により、国旗がソビエト編入以前のデザインに戻された。1989年7月にリトアニア共産党がソビエト連邦共産党からの独立を宣言した。, 1990年3月から6月にかけて東欧各国で一斉に選挙が実施され、ほとんどの国で共産党が第一党から転落した。バルト三国でも共産党は少数野党となり、バルト三国の各最高会議は独立宣言を採択した。ソ連政府はバルト3国に対して軍事行動を起こし、1991年1月の血の日曜日事件(リトアニア)などで、ソ連軍と民間人が衝突する事態になった。, ソ連は1991年3月、バルト3国を除く首脳が、連邦の権限を縮小した新連邦の構想に合意した。同年3月17日には新連邦条約を締結するための布石として、連邦制維持の賛否を問う国民投票(英語版、ロシア語版)が各共和国で行われ、投票者の76.4%が連邦制維持に賛成票を投じることとなった。しかし、既に分離独立を宣言していたバルト三国(エストニア・ソビエト社会主義共和国、ラトビア・ソビエト社会主義共和国、リトアニア・ソビエト社会主義共和国)、モルダビア・ソビエト社会主義共和国、グルジア・ソビエト社会主義共和国、アルメニア・ソビエト社会主義共和国は投票をボイコットした。, 1991年6月12日、ソ連体制内で機能が形骸化していたロシア・ソビエト連邦社会主義共和国で、選挙により大統領に当選したボリス・エリツィンは、国名を「ロシア共和国」に改称し、主権宣言を出して連邦からの離脱を表明した。, また、米ソ両国は1991年7月に第一次戦略兵器削減条約 (START) に調印した。しかし8月20日に予定されていた新連邦条約調印を前に、ゴルバチョフの改革に反抗した勢力が軍事クーデターを起こし、ゴルバチョフを滞在先のクリミアで軟禁状態に置いた。クーデターは、ロシアのエリツィンの活躍やクーデター勢力の準備不足から失敗に終わった。, しかし、その結果バルト三国は独立を達成し、各構成共和国でも独立に向けた動きが進み、12月8日に、ロシアのエリツィン、ウクライナのレオニード・クラフチュク、ベラルーシのスタニスラフ・シュシケビッチがベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、ソ連からの離脱と独立国家共同体 (CIS) の結成で合意した(「ベロヴェーシの陰謀」)。こうして12月25日をもってソ連は消滅した。その後十年間で、東欧や旧ソ連の国々の一部は、相次いで資本主義国家となった。, ベルリンの壁が崩壊して冷戦が終結する前後に、それまで反共主義が故に、軍事政権や独裁政権、長期政権の存在が容認されていた一部の西側諸国(インドネシアや台湾、韓国、ザイールなど)が、アメリカからの金銭や軍事、政治的支援を受けられなくなったために次々と政権崩壊し、選挙の実施や政権交代を余儀なくされた。日本でも55年体制が崩壊し、非自民・非共産連立政権が樹立された。さらに反共主義を条件にアメリカの援助を受けた軍事政権や独裁政権、長期政権がその殆どを占めた中南米諸国においても、チリやアルゼンチン、ブラジルなどの主要国で相次いで民政化が進んだ。また、ソ連の中南米における橋頭堡として、軍事援助やバーター貿易などの方法でソ連から多大な援助を受けていたキューバは、冷戦が終わってアメリカとの対決の必然性が消えたロシアにとって戦略的価値を失い、援助は途絶え、経済危機に陥った。, 米ソ冷戦が終結した当初の1990年代初期において、フランシス・フクヤマが『歴史の終わり』を発表し、政治体制としてのリベラル民主主義の最終的勝利を宣言した。冷戦終結直後の1991年に、冷戦の盟主国の一角であるソ連が死滅すると世界の均衡が崩れ、アメリカが唯一の超大国となった。ソ連型の国営の計画経済・統制経済モデルの社会主義体制と社会主義経済圏が崩壊し、世界の経済が資本主義経済・市場経済により統合され、グローバリゼーションが進行した。冷戦終結により、それまでクレムリンやホワイトハウスに抑圧されていた世界各地の民族問題が再燃した。, 東ヨーロッパを見ると、1993年にチェコスロバキアがチェコとスロバキアに平和裏に分離した反面、1993年に起こったユーゴスラビア紛争は、民族同士の憎しみに火を点けてその後も続いた。カフカス地方ではアゼルバイジャンやアルメニアで内戦となり、チェチェンをはじめ各小民族が独立闘争を起こし、各国で内戦に発展した(第一次チェチェン紛争)。この内戦はロシア軍による圧倒的な火力で制圧されているが、追い込まれた独立派はテロ行為に走り、収拾がつかなくなっている(第二次チェチェン紛争)。また、このテロにはイスラーム過激派の関与が疑われている。, 西ヨーロッパの冷戦は終わったが、東アジアではモンゴルの民主化、ベトナムとアメリカの和解の外は、中華民国と中華人民共和国の対立、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の対立(朝鮮戦争)が現在も続いており、日本国内では日本共産党と朝鮮総連は現在も公安当局(公安調査庁、公安警察)に監視されているなど、こちらは解決の見通しが立っていない。, アメリカは「冷戦の戦勝国」という自信から、1991年の湾岸戦争に引き続いて中東への介入を深め、ビル・クリントン政権はパレスチナ問題に積極的に関わり、初めて和平合意をもたらした。しかし、イスラエルの凶変から和平は暗礁に乗り上げ、パレスチナ過激派によるテロとイスラエル軍による虐殺によって、パレスチナは泥沼の様相を呈した(パレスチナ問題)。また、アフガニスタンやスーダンには1998年にミサイル攻撃を強行し、特にアフガニスタンには4回に亘る経済制裁を与えた。アフリカに対しては、スーダンの外にはソマリアにも国際連合の力で内戦に介入したが失敗し、これによって、クリントン政権は地上軍の派遣を恐れるようになった。イラクに対しては湾岸戦争以来敵対しており、イラク武装解除問題に関しても、武器査察が滞る度に空爆を加えた。これらのアメリカによる中東への介入やグローバリゼーションに反感を抱くアルカーイダは、2001年にアメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、対テロ戦争と呼ばれるアメリカのアフガニスタン侵攻やイラク戦争となった。, 特にイラク戦争に関しては開戦時第一の理由に挙げられた大量破壊兵器は一切見つからず、最終的に存在しないことが判明したため、アメリカ外交の信頼に大きな傷をつけた[19]。ジョージ・W・ブッシュ大統領も退任直前に、大量破壊兵器の情報収集は政権の最大の失敗の一つであったことを認めた。, 核開発競争によって生産された高性能核弾頭を、現在もアメリカとロシアが数千発保有している。冷戦初期に核のアメリカ一極集中を恐れた一部の科学者は、核の抑止力で世界の均衡を保とうと、ソ連とイギリスとフランスに開発法を伝授し、ソ連から中華人民共和国にも継承されて、現在の核五大国が形成された。この外にも、中華人民共和国やソ連から流出した開発法によって(中ソ対立なども要因となっているが)インドやパキスタンの核保有(印パ戦争#核保有)や、アメリカから供与された技術によってイスラエルの核保有に及んでいる。, 2008年8月には南オセチア紛争が起こり、米露間に軍事的緊張が生じ、「冷戦の再来」「新冷戦」などと呼ばれる状況となっており、緊張状態が続いている。同年の世界金融危機で影響力を高めた中華人民共和国も、米中冷戦と呼ばれる緊張状態にあるとされ、中露はNATOと対立する上海協力機構を組織している。ロシアは、ソ連が崩壊すると共和制国家として甦生し、ボリス・エリツィン政権下で経済の再建と資本主義化が推進された。しかし、これが裏目に出てロシアの経済は悪化し、特にアジア通貨危機後の1998年にはロシア財政危機が起きて一層悪化するなど、「冷戦の敗戦国」として欧米の経済援助に甘んじていた。しかし、2003年頃より原油価格高騰の恩恵により経済は好転し、それを背景にウラジーミル・プーチン政権は再び「強いロシア」の復権を謳い、EUやNATOへの旧ソ連加盟国の取り込みを進めていた欧米に対して、シリア内戦に介入するなど牽制の動きを見せるようになった。, 1989年 - 1991年に起こった「ソ連型社会主義体制」の消滅により、多国籍企業は地球規模で市場と利益を奪い合うグローバリゼーションが進行した。冷戦時代末期のIMF不況と1990年代のグローバリゼーションに遭遇したラテンアメリカでは、2000年代になると反米・左派の政権が続々と生まれ、社会主義が復活する動きを見せていたが、その代表格であったベネズエラのチャベス大統領が病死したことで2012年頃から親米路線に回帰する国も増えている。, 冷戦は、それがグローバルな戦後国際政治に大きな影響を与えたことから起源、展開、終焉に対して様々な解釈が示され、論争を呼んできた。以下では、学術的な冷戦史研究の中で行われた論争について説明する[※ 3]。, 冷戦史研究では様々な争点が存在したが、特に大きな争点を形成したのは、「冷戦はいつ、なぜ生じたのか」という冷戦の起源を巡る論争だった。この論争は、西側陣営最大の当事国である米国の学界を中心として活発になされることとなった。, 冷戦起源論争は二つの特徴を有していたといえる。第一に、冷戦起源論争は第二次世界大戦などの起源を巡る学術論争と異なり、それが同時代的に継続している状況の起源を論じるものであったため、ベトナム戦争を典型として、研究が発表された当時の出来事や問題関心に強く影響されたものになった。第二に、その論争が米国学界を中心に展開されたことや、資料公開ペースのスピードなどから、特に米国に分析の重点を置いたものとなった点である。そして、一般に研究学派は伝統学派/正統学派、修正主義学派、ポスト修正主義学派に大別されている[※ 4]。, 伝統学派/正統学派 (Traditionalist / Orthodox) は1950年代から60年代にかけて研究を発表した学派であり、この学派に分類される研究者の議論は冷戦の起源をソ連の拡張的・侵略的な行動に求めるという特徴を有していた[※ 5]。伝統学派はソ連がヤルタ会談で合意されたポーランド自由選挙を実施しなかったこと、東欧各国に対して共産党政権を樹立する動きを示したことなどの一連の行動が西側に警戒感を生み出し、マーシャル・プラン、NATO結成などの西側陣営強化はこれに対する防御的な行動としてなされたとする解釈を示した。, 以上のような解釈はノーマン・グレーブナー (Norman A. Graebner) のCold War Diplomacy (1962)、ルイス・ハレー (Louis J. Halle) の『歴史としての冷戦』(1967)、ハーバート・ファイスのFrom Trust to Terror (1970) などに代表されるものであったが、これはトルーマン政権の国務長官を務め、冷戦政策を展開したディーン・アチソンの回顧録の記述とも重なるものだった。その意味で伝統学派は、戦後米国の外交政策を擁護するニュアンスも帯びていたと評されている[20]。, 続いて1960年代より登場した修正主義学派 (Revisionist) は、伝統学派の解釈と真っ向から対立し、冷戦の発生はソ連の行動よりも米国側の行動により大きな原因があったとする解釈を提示した。修正主義学派の最大の特徴は、経済的要因を重視する点にあった。1958年に『アメリカ外交の悲劇』を発表し、後に自らの勤務したウィスコンシン大学マディソン校で「ウィスコンシン学派」といわれる後進たちを育成したことで知られるウィリアム・A・ウィリアムズは、同書で建国以来米国指導者層が海外に市場を求める必要があるという「門戸開放」イデオロギーを奉じていたことに最大の原因があったとする主張を展開した。ウィリアムズは、第二次世界大戦で大きな被害を受けたソ連が伝統学派の考えるような脅威ではなかったと指摘した。そして、冷戦は米国が門戸開放イデオロギーのもと東欧地域の市場開放を執拗に要求し、ソ連に対して非妥協的態度を貫いたこと、これにソ連が反発したことによってもたらされたものであったとして、米国により大きな責任があったとする解釈を示した。ウィリアムズのテーゼは、彼が育成した外交史家である ウォルター・ラフィーバーの America, Russia, and the Cold War (1967)、ロイド・ガードナーの Architects of Illusion (1970) などによってより精緻に検討されることとなる[21]。, また、修正主義学派の研究はウィリアムズの研究にとどまらず、よりラディカルな展開も示した。ガブリエル・コルコとジョイス・コルコ (Joyce Kolko) は、The Limits of Power (1972) において、米国の対外政策のすべては資本主義体制の防衛を目的としており、世界規模で革命運動を弾圧するものであったとするマルクス主義に親和的な解釈を主張することとなった[22]。これらの研究は、ベトナム戦争の泥沼化により、従来の米国外交のあり方に対する不信が強まっていた60年代の時代状況下で、強い支持を受けることになった。当然ながらこれらの主張は、伝統学派からの反発と論争を巻き起こすこととなる。伝統学派からは修正主義学派の分析の実証性の乏しさ、経済要因の過大評価、米国の行動のみを実質的に分析している分析の偏重などが批判されることとなった[23]。, 伝統学派・修正主義学派に続くポスト修正主義学派 (Post-Revisionist) は、先行する学派の議論の抱える問題点を克服し、さらにこの頃徐々に公開が進んだ西側政府の公文書を活用することで、歴史研究としての実証性を増す形で議論を展開することとなった。その先駆的著作とされているのが、ジョン・ルイス・ギャディスの The United States and the Origins of the Cold War (1972) である。ギャディスは一次資料に依拠した上で、正統学派の重視する安全保障要因、修正主義学派の重視する経済要因を同時に取り入れつつ、さらに国際政治構造、国内政治要因、政策決定プロセス(官僚政治)の影響などを盛り込んだ分析を提示した[24]。, ギャディスは、各国の疲弊によって「力の真空」が生じていたヨーロッパにおいて、米ソ両国が対峙するという状況下が生まれたこと、対峙の緊張の中で米ソが様々な要因から相手の行動・思惑に対する誤解を重ねたことが(本来両者の想定しなかった)冷戦を生んだとする解釈を示し、米ソいずれかの行動に冷戦発生の責任を求める過去の議論を排する主張を展開した[25]。ギャディスによるこのような新しい解釈は、ブルース・クニホルム (Bruce Kuniholm) のThe Origins of the Cold War in the Near East (1980)、ウィリアム・トーブマンの Stalin's American Policy (1982) などにも継承され、彼らの研究は「ポスト修正主義学派」として広く受け入れられることとなった[26]。