世界を滅ぼしても俺は描きたいっ! 俺は百合を描きたいんだっ! ID: ol8CocJLYy, 2018/10/29(月) 12:49:54 そんな気持ち悪いアニメにハマってる腐女子に無双される女子フィギュア界って大丈夫か? 58: なまえないよぉ~ 2016/12/15(木) 12:24:04.14 ID:/4QyLhoO.net >>54 ID: ol8CocJLYy, 2017/09/24(日) 19:45:04 ID: uOnUjS8D59, 2018/03/20(火) 22:00:34 183 ... 百合男子はあんま好きじゃないが . 『コミック百合姫』にて2011年3月号より2014年7月号まで第一部が連載されていた。 うるせー男の娘の方が気持ち悪いわ 31 ... (火) 00:30:13.62 id:c78uishm0 百合は全く興味無かったけどまどマギのほむあんで目覚めた . 決して、「だから、何?」などど言ってはいけない。, 2017/09/24(日) 16:31:56 「百合男子」という概念に憎悪をぶちまけるメンヘラ女百合厨は見たことがある 992 名無しさん@どーでもいいことだが。 2020/06/13(土) 20:03:51.91 ID:9NDyRFVt ID: eDlox3VIQa, 2018/10/07(日) 15:42:35 ID: VU4dmHfa2b, 2017/10/01(日) 10:06:40

なぜ女性にとって百合は気持ち悪いのか? 1 : Miss名無しさん :2011/03/22(火) 16:34:42.35 ID:Zs/yQwOk BL好きな男性がけっこう多いことと比較すると対照的。 ID: Py1xPBWT6j, 後半2行は、どうしても"男"である自分の存在を否定しなければ気がすまない、らしい。, https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E7%99%BE%E5%90%88%E7%94%B7%E5%AD%90, 推奨環境:Edge, Safari, Chrome, Firefox, Opera いずれかの最新版, 宇宙空間でのハチミツの不思議な状態が話題に 「遊びは科学の一部なんだ」(カナダ)<動画あり>, 「中学受験にもはや国算理社は不要か」謎解き入試、読書感想文入試…ユニーク入試で入れる穴場校リスト. ID: ol8CocJLYy, 2018/09/23(日) 12:20:12 といった感じの作者の想いの丈が具現化した感じの作品。 ID: uOnUjS8D59, 2017/10/01(日) 14:02:21

2019年11月24日(日)開催の第29回文学フリマ東京にて頒布される、不毛連盟『ボクラ・ネクラ Vol.3』[ブース:ヌ-13、単品500円、既刊とセットで購入の場合100円引き]に、「さようなら、百合男子(中編) はじめに 2019年11月24日(日)開催の第29回文学フリマ東京にて頒布される、不毛連盟『ボクラ・ネクラ Vol.3』[ブース:ヌ-13、単品500円、既刊とセットで購入の場合100円引き]に、「さようなら、百合男子(中編) ――アポカリプス・新人類・ユートピア」を寄稿しました。 前半2行は「"百合"は、我々の妄想によって生まれるのだ」という意味。 ID: 4+p5W3sAG7, 2017/09/24(日) 19:48:14 2015年1月号より新たに『俺と百合-百合男子第2章-』として連載していたが、単行本化の際に『俺の嫁なんていねぇ!』に改題した。 多くの百合ファンが男などという汚れた存在を視界の隅に入れたくない事に配慮し、低品質用紙で掲載されていたが、却って印刷・製本の工程を圧迫し、コスト面もマイナスなるという本末転倒な状況になってしまった為、苦渋の選択で通常品質となった。, デカルトの「我思う、ゆえに我あり」を主人公である啓介流にアレンジしたもの。 我が物顔でジャンル浸食する百合厨やそれらに媚びようとする作品などにうんざりしている人へのスレッド, コラのガイアが「百合漫画に汚いおっさんが出る同人出したら売れたわ」って言ってたけども、結局あれが世論なんだよ。コラを真に受けるのもアレだけども、世に出てる作品のほとんどが男女もの(恋愛あり無し問わず)だからあながち的外れではない, おねショタやTSも含んでNLも楽しんでるっぽいけど、百合っぽい要素が満載のリョナゲー作ってる女性作家…, lainとか姉(仮)がいて、確か女子校っていう百合要素入れやすそうな舞台でオカルト系SFやってたけど, 前にTwitterで流れてきてたラブコメヒロインが自我を〜っていうやつ、ラブコメは大体好きじゃなかったから面白そうじゃんって感じで読んで行ったら最後で萎えた, 下手なハーレムラブコメのアンチテーゼかと思えば百合の踏み台にしたいだけだったとかきっつい, あの主人公もどきのことはどーとも思わないしあの二人は好きにいちゃついてていいと思うんだけどメタ的というか作中外というかそういう方向で嫌な感情ががが, 売れない売れないいうのにガンガンゆる系からガチ系にシフトしてアニメ化するのは不思議ですなぁ, とうとう男が一切出てない百合漫画に、「百合に挟まろうとしている男をぶちのめす」的なリプを送ってやがるよ。, 百合に挟まろうとする男とやら自体が連中が男憎しの感情が作り出した被害妄想の産物だろ, https://medaka.5ch.net/test/read.cgi/doujin/1573050602/, https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1912/16/news086.html, https://medaka.2ch.net/test/read.cgi/doujin/1592091771/. 後半2行は、どうしても"男"である自分の存在を否定しなければ気がすまない、らしい。 ID: uOnUjS8D59, 2018/09/23(日) 12:31:38 ――アポカリプス・新人類・ユートピア」を寄稿しました。概要は以下の通りです。, 個人評論⑤江永泉「さようなら、百合男子[中編] アポカリプス・新人類・ユートピア」ポスト・アポカリプスと百合とのSFジャンル上での出会いの意義を考察。百合男子がしばしば抱える自己抹消という問題意識は、異常心理ではなくジャンル的な想像力から要請されうるはずだ。作品読解への予備的考察 pic.twitter.com/JV2FzpvUgK, 昨年2018年の『ボクラ・ネクラ Vol.1』に寄稿した文章の、続編となっています(前号の内容は以下URLを参照)。, 個人評論⑤「さようなら、百合男子[前編]―アポカリプス・新人類・ユートピア―」百合男子という読者類型には、ある種の政治的スタンスの雛形ないし戯画を認めたくなることがある。百合の尊みとは何か。なぜ尊みの観測者の消滅が望まれがちなのか。桜庭一樹と大槻ケンヂの小説等を引きそれを論じる。, 今回寄稿した中編は、前編の論旨を整理したものになっています。つまり、前編で作品論を通して語ろうとした問題意識を、より理屈立てて整理しようとしています。本記事では、前編の内容を公開したいと思います(編集から許諾を受けました)。中編と合わせてご覧いただければさいわいです(なお、本記事での公開に際して、一部表現に加筆修正を加えました)。, ※本記事は、昨年2018年に『ボクラ・ネクラ Vol.1』へ寄稿した文章を、再掲したものになります。, 2004年の前後、オタク文化を男性学的観点から批評しようとした熊田一雄は、「百合文化は、「ヤオイ=ボーイズ・ラヴ」(女性向け男性同性愛ファンタジー)」に約二十年遅れてアニメ『美少女戦士セーラームーン』を大きな契機として、女性だけではなく男性の読者も増やしはじめ、現在少女小説=アニメ『マリア様がみてる』とともに裾野を拡大しつつある」(72)と述べて、百合――熊田の考察の中では、厳密に定義しようとするとブレが生じる、という懸念が述べられつつ、その中心的な意味は「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛ファンタジー」である、と差し当たり定義されている――を愛好する男性たちの性差への意識を検討している。幾つかの先行言説を踏襲しながら熊田が述べたこのような史観の、また百合の定義の是非は、ここでは措く。, しかし、「百合を愛好する男性たちの抱える男性性をめぐる葛藤とは、「対等な性」=親密性への要求と、ササキバラが論じた一九七〇年代以降も変化しない男性の「一方的に見る」「特権的な立場」、男性の根源的暴力性との葛藤だろう」(82)という熊田の指摘、またそこで展開される熊田の批評は、倉田嘘のマンガ『百合男子』第1巻(一迅社、2011年8月)の登場人物によって戯画的に示された、「我思う、ゆえに百合あり、しかしそこに我、必要なし」といった意識と、それをめぐる喧々諤々の論議――おそらく、今日まで続いている、百合を愛好する男性の性差についての意識と、それをめぐる、女性学的、男性学的、ジェンダー論的、セクシュアリティ論的な、あれこれの観点から判断された際の是々非々に分かれる構図――を、先取りしているように思われるのである。, 本稿の目的は、熊田の問題意識を踏襲しつつ、いわばこの、百合男子的観点と形容できるであろう文化あるいは精神性を、批判的に検討し、そのクリティカル・ポイントへと踏み込んでいくことである。――いくつかの作品分析と、理論的考察の、往還を通して、そこに辿り着くことを私は試みる。, 桜庭一樹の小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』には、忘れがたい場面がある。父親の雅愛に虐待を受けているとされる少女、海野藻屑と、この物語の語り手であり、ひきこもりの兄を破滅的な仕方で扶養し続けてきたように見える少女、山田なぎさとが、逃げ場のない抑圧にさらされる苦境からの逃避行を試み、そして失敗するにいたるまでの、その一連の場面である。――戸外で風雨の荒れ狂う、暗い教室の中。藻屑は言う。「こんな人生、ほんとじゃないんだ[……]きっと全部、誰かの嘘なんだ。だから平気。きっと全部、悪い嘘」(159頁)。藻屑のその言葉を耳にしているのは、なぎさだけだ。「窓の外が別世界みたいに荒れている。世界に二人きりになってしまったように、教室の中だけが静かで、安全で、薄暗くて……」(同)。, そして二人は、逃避行の支度をする。「あたしと藻屑は手をつないで教室を出た」(161頁)。初めは二人でなぎさの家へ。一人部屋のないなぎさが自宅で荷物をまとめていると、いつも与えられた部屋に引きこもっている兄の友彦が襖を開けなぎさを見つめている。どこかへ行くのかと問う友彦に、なぎさは、「に、逃げる」(162頁)と告げる。「あたしが言うと、友彦はかすかに顔を歪めた。/「そっか。ふぅん……。ぼくも、どこかに行きたいなぁ」/それだけつぶやくと、友彦は乱暴に襖を閉めた。ぴしりと大きな音が響いて、あたしは心臓を掴まれたみたいに飛び上がった。それから鞄を掴むと転がるように家を出た。もう帰ってこない。もうご飯もつくんない。おかあさんの手伝いもしない」(同)。続けて二人は、藻屑の家へ向かう。――そこで二人は、今生の別れを迎える。, 藻屑は海野宅のドアを開け、中へと入っていく。「微笑が余韻を残すように少しずつ、閉まっていくドアによって遠ざかっていった。そのままあたしはそこに立って、藻屑と一緒に行くはずのどこか遠いところを夢見ていた。そこは、とにかく、ここじゃないのだ。あたしも藻屑も自由になるのだ。そうだ、そこにはあれがあるのだ。あたしも藻屑も知らないし、必要なのかどうかもわからないもの。あれ……。/安心がある」(164頁)。この後、藻屑は家から戻らず、なぎさは山の中腹で藻屑のバラバラ死体を見つけることになる(その後、雅愛が犯行を自供する)。二人の逃避行は、どこか、百合的である。――どこか、駆け落ちめいているようにも感じる。  『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の副題は「A Lollypop or A Bullet」であるが、それがすぐ連想させるのは、黒人解放運動の旗手であったマルコムXのスピーチ、「The Ballot or the Bullet」であるはずだ。マルコムXはこのスピーチの中で、分離と統合という問題に切り込んでいる。, 白人は、黒人を、人種隔離という仕方で統合しているとマルコムXは喝破する。いうなれば、排除という仕方で包摂するというやり方がとられている、というわけだ。――そんな状況では、適度に存在する白人の黒人差別主義者と、これまた適度に存在する白人の反差別主義者は、両者が望むと望まざると、大局的に見れば、黒人をこの差別的な状況に留め置くことに共謀しているに等しい。――これがマルコムXの見立てであろう。それゆえ、マルコムXは、「白人の裁きが及ぶところから外れるほど十分に遠く」へ行くこと、つまり分離主義を説いているのだ。, 分離主義の観点から捉えるならば、なぎさと藻屑の逃避行も、差し当たりは、女たちの分離主義(悪しき男たちの社会からの)、あるいは、子供たちの分離主義(悪しき大人たちの社会からの)と読解することができるだろう。, この問題を簡潔に、かつ鋭く整理しているのは、小泉義之であると思われる。小泉は、1960年代後半から70年代にかけてのアメリカのフェミニズム文献を参照して、男性性が支配服従関係の支配側に割り振られるような家父長制批判の理論的深化の一種であるような、ある分離主義を素描している。, マルコムXに倣って言うならば、男たちは女たちを、男たちから遠くに、でも男たちの裁きが及ぶところから外れるほど十分に遠くはないところ、つまり、家庭に置きやっているのだ、ということになるだろう。社会構成体の維持、つまり、男女間の支配服従関係を、(異性)愛ゆえに、よしと見做すような構造の維持を、このような分離主義は拒否するわけだ。, 雅愛から藻屑への虐待がいびつな父娘関係として描かれていること、友彦となぎさの関係がいびつな兄妹関係として描かれていることのみに注目するならば――それらに見出される暴力は、家族愛とも性愛ともつかぬある種の情緒によって粉飾されている――、まさしく、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の先の箇所は、この意味での分離主義の夢を掻き立てる力がある、と言えよう。――少女たちの描く夢が「自由になる」ような場所、「安心がある」場所と描かれているがゆえに、こうも言えよう。ここでは、女(の子)だけの国、圧制なきユートピアが夢見られているのだ。, そして、実は、このユートピアにおいて女(の子)はもはや(従来の文脈でいう)人間ではないと捉えることができる。再び小泉の記述を参照する。, これは「レトリカル」に過ぎる曲解などではない。現に、フランスのレズビアン・フェミニストである作家、モニク・ウィティッグは、1980年発表の論考でこう述べていた。「レズビアンは、性のカテゴリー(女性と男性)を超えていくと私の知る、唯一の概念である。なぜなら、デザインされたこの主体(レズビアン)は、経済的にも、政治的にも、イデオロギー的にも、女性ではないからだ」(20頁、斜体は原文ママ)。少なくとも、「レトリカル」に言えば、レズビアンは女性ではなく、さらに言えば(従来的な意味で女性か男性かであるような)人間(という枠組みに収まる存在)でもない、ということになろう。, こうした不穏な物言いを、時宜も場所も弁えず、むやみに引用する行為は、悪意に満ちた、反動的なものと思われるかもしれない。だから別の「レトリカル」な表現を重ねる。魯迅の短編小説「狂人日記」は、周囲の人間すべてが悪しき食人者であると妄想する男の残した日記という体裁の小説である。しかし、この男は自らもまた日々を暮らすうちに人を食わされ、食人者たちの一員になっていたと独白する。そしてこう結ぶ。「人を食わずにいる子供は、あるいはあるかもしれない。/救えよ救え。子供……」。ここでの食人とは、悪しき風習、社会化されるに従い習得させられてしまう悪しき傾向の範例であると解しえよう。私が、レズビアンは女性ではない、という表現に着目するのは、この意味でのレズビアンとは魯迅のいう「子供」のことであるように思われるからだ。――おそらく、これらの表現は、悪しき「社会構成体の再生産」をなす構造に取り込まれていないような存在、言い換えれば、ある構造的な暴力に加担している咎を免れるような、無垢な存在を夢見ている。――分離主義は、暴力から自由な、ユートピアの「少女」たちを夢見させる。, 2017年、あるSF読者はブログ『ナナメ読みには最適の日々』の記事「百合とSF」で、こう述べていた。「ここ数年百合要素の強いSFが妙に増えてないか、と。海外SFはともかく、国内の作品では顕著に」。このブロガーは、その原因を分析しようとして、次のような結論へと至っている。, 私は、このブロガーの洞察には見逃せないポイントがあると感じる。もう一度、なぎさと藻屑のいた教室を思い出そう。――二人が知らない「安心」はなくとも、そこには「安全」があると描かれていた、あの教室。「別世界みたいに荒れている」外界、「世界に二人きりになってしまったよう」な、暗い場所。――まるで、(ポスト・)アポカリプスの風景のようではないか。, おそらく、分離主義の夢は、(ポスト・)アポカリプス的な世界の想像と密接に結びついている。この世界の彼方、新世界にいる女(の子)たちが、そして、その女(の子)たちの織りなす(例えば、尊いと形容されるような)関係が、ユートピア的な無垢の結実であるかのように見えることは、すでに述べた。百合の尊さの前で自らの消滅を願う男たちは、内なる悪(と切り離せない仕方で構築された自己)を消し去ることで、ユートピアの完成を夢見ている。――悪しき従来の全ては皆、我々(従来の男性・従来の人類)とともに、この世界から退場する、というわけだ。――(ポスト・)アポカリプス百合とは、従来の悪しき「社会構成体の再生産」の消去の夢想、そしてその「主敵を打倒する」夢想のもたらす、興味深いジャンル、想像のコードの一つである。――少なくとも、そのような想像の余地がある。  しかしながら、私は、ユートピア到来のために世界を辞去する(つもりでいる)百合男子のことを、言祝ごうとするわけではない。, 実のところ、構造的暴力の咎なき新人類としてレズビアンを構想するウィティッグの力強い議論は、ジュディス・バトラーの名高い著作『ジェンダー・トラブル』で詳細に、そして批判的に検討されている。, SF的な戯画の中で、従来の人類の絶滅を夢見ることさえも許すように映るウィティッグの暴力志向を、バトラーはこう論じていた。「セックスのカテゴリーは、規範的な異性愛の制度を必然のものとする自然化された構築物なので、ウィティッグのテクストの暴力が向けられるのは、その制度に対してであり、その理由は、その制度が異性愛的であるからではなく、それが強制的なものだからだ」(224頁)。ウィティッグにおいて、男/女という二元論的性差の消去は、枠組みの破壊というよりはむしろ抑圧の解除として想像されている。そこで素描されているものは、レズビアンが従来の男性のように暴力的になる、という事態とは確かに異なっている。, しかしながら、バトラーはウィティッグをこう批判する。「みずからを異性愛から根本的に排除されたものと定義するならば、そのようなレズビアニズムは、レズビアニズムを部分的に必然的に構築している異性愛の構築を意味づけなおす能力を、みずから失ってしまうことになる」(226頁)。もしウィティッグのいうレズビアンが、従来の悪しき二元論的性差とは完全に無縁であるとすれば、それは、男役や女役というスタイルを備えていることもある、現行の女性同性愛者たちとも無縁の、想像の産物に過ぎないのではないか。, このユートピアを言祝ぐというのは、この世界を変えることとは何の関係もない、単なる夢想に留まるのではないか。――いや、そうではない、と言いうる余地も見いだせよう。あるいは、それの何が悪いのだ、と言い切る術さえも見いだせよう。――しかし、本稿では、ウィティッグの夢想――バトラーのいう「テクストの暴力」――そのものを批判的に検討したい。, 実は、占星術師ノストラダムスによる予言――1999年に人類が滅亡するというもの――の囁かれていた1990年代後半、日本のあるロックミュージシャンによって、ウィティッグ的なユートピアのおそるべき戯画が素描されていた。大槻ケンヂ『ステーシー』(である。このホラー小説は、大槻の所属バンド筋肉少女帯のアルバム『ステーシーの美術』(1996年3月)に所収の楽曲と設定を共有しているが、この作品の成立に関するいささか複雑な経緯は省略し、以下では、角川ホラー文庫『ステーシー 少女ゾンビ再殺談』より引用する。, この小説、『ステーシー』は、大まかに述べれば以下のような物語である。世界中で、15歳から17歳の少女が多幸感に襲われながら突然死し、人語を解さず人肉を食らうゾンビとなって甦るという怪現象が頻発するようになる(ゾンビたちに付けられた呼称が、ステーシーである)。物語はしばしば視点人物を変更しながら、もっぱら、ゾンビと化した少女、ステーシーたちを原形をとどめないほど破砕する男性たち(作中では、ステーシーに対応する「再殺部隊」が組織されている)の狂騒が描かれていくが、人語を解するステーシーが現れ、最終的に物語は、異様な結末へと至る。, 奇妙なことに、この小説には大人の女性が登場しない。殺されるのはゾンビと化した少女であり、殺すのは大人の男性である。――この、大人・男性・人間が、子供・女性・人外を殺す、という構図は、先に見た家父長制批判の構図の邪悪な戯画のようである。――この物語における暴力の氾濫は、笑い声や叫び声のオノマトペなどの異様な侵入によって、ウィティッグにおける「テクストの暴力」に近づいているようにも見える。, しかし、それだけではない。男/女という性のカテゴリーは、暴力の過剰の中で崩れていく。例えば、壊れた機械のように謝罪の言を繰り返したり、かと思えば爆笑の中でステーシーを破砕したりする再殺部隊の男たちは、もはや人間というカテゴリーを維持できなくなっているように映る。「泣いたカラスがもう笑う。あれだけ詫びを入れていた松井も今はゲタゲタと笑っていた」(91頁)。, また、人語を解するステーシーが「再殺部隊さん、あなたたちは、あたしたちを焼き、切り、刻み、バラバラにして、あの炎の中にボンボン放り投げるのが仕事なんでしょ? だったらそれを、自信を持っておやりなさい」(114-115頁)云々と長広舌を繰り広げるとき、暴力の横溢の中で、非対称な力関係の枠組みそれ自体が軋んで反転しているようにさえ見える。だが、こうした混乱がこの物語における「テクストの暴力」の主眼ではない。, この物語は、超能力を備えた「畸形」(目が3つあるなど)の少女たち(ハムエ、と呼称されることになる)が登場して、終結へと向かう。ステーシーと再殺部隊との狂騒は、ステーシーが突如人間を襲わなくなり、終結する。「合衆国大統領は、ほぼ十年にわたってこの世界が闇に陥れられた理由を、〝主軸による微調整期間〟と述べた」(168頁)。さながら、「主軸」という運営が「世界」というゲームのアップデートでミスをした結果、「世界」はバグってしまい、ついに今メンテナンスが終了した、といわんばかりの仕方で簡素な有無を言わさぬ説明が流される。その後、何が起きたのか。長くなるが、語り手の説明的な記述を引用する。, 成人女性の登場しないこの小説において、ロスト(旧人類)とは、成人男性に他ならない。人類の子供も、登場しないといってよい(ロストの子供はなく、ロストとステーシーのベビーと、単為生殖するハムエだけが描かれる)。この結末において、二元論的な性差も、それらを包括する人類という枠組みも解消され、新たな分類が残される。――ロスト、ステーシー、ハムエ。――単為生殖する「第二世代のハムエ」たちは、人類(いまや、ロスト)から発生した新人類である。――「新しきこの調和の世界」、このユートピアと、その担い手たるハムエを、ステーシーとともに、穏やかな幸福の中で絶滅に向かいつつ肯定する旧人類。――ここでは、ウィティッグのレズビアン論、分離主義の百合男子的想像力が、見事に結実しているのだが、それは何か不気味な魅力を放ちつつも堪えがたい地獄絵図のように感じられる。, この小説の終末の光景の不気味な魅力と堪えがたさは、おそらく、物語世界の水準でなされる個々の暴力というものだけではなく、むしろ、物語世界を生きている全てのものに加えられる暴力に由来している。――その、いわば高次の暴力が、主軸という世界の法則そのものと同一視されて、逍遥と受け容れられる、という事態にこそ、根源的な堪えがたさが感じられるように思われる。――テクストを書き込んでいく、非人称的な書き手のようなもの。それが振るう力、いわば、決して違法化されえない暴力のような強制力。そのおそろしさが、ここで前景化するものの、核心であるように思われる。, 世界から個々の暴力、いわば低次の暴力を消去する。――分離主義者の夢の先にある、そんなユートピアにもたらされる、高次の暴力があるのかもしれない。――これこそが、百合男性的観点に胚胎されている「根源的暴力性」なのではないか。しかし、この「根源的暴力性」は、自明に「男性」的なものと言っていいのだろうか。, 先ほど私は桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を、百合男子的観点から読解した。しかし、実は、その読解は物語世界における重要な挿話を捨象しているものだった。とりわけ、物語の中で、なぎさと藻屑と深く関わる登場人物、花名島正太のことを、読解から全く排除していた。, 花名島は、物語開始時点で、なぎさが淡い恋心を抱いている同じクラスの男子生徒である。花名島の方は、やがて藻屑に関心を抱くようになり、花名島、なぎさ、藻屑は、三人で映画を見に行くことになる。しかし、その後、藻屑は「三十分後に、最初のバス停で」(67頁)となぎさに密かに言伝をして、脱出イリュージョンで姿を消してしまう。花名島は帰宅し、なぎさは指定の場所で藻屑と落ち合う。その後の夕方、なぎさと藻屑が二人で歩く姿を目撃した花名島は、「二人で俺をはめたんだろ?」(97頁)と怒り出す。, それに引き続き、なぎさが飼育係として世話していた学校のウサギたちの虐殺、花名島による藻屑への暴力、藻屑による花名島への暴力などの出来事が連鎖していく。そこではマゾヒズムと成熟に関してあからさまに述べている箇所も見られる。花名島が藻屑に振るった暴力を謝罪するが、藻屑は収まらない。藻屑は掃除用具で、花名島を繰り返し殴打する。, 百合男子的観点がとりこぼすようなもの。――それは、おそらく、暴力を消去するという夢想に伴う(低次の、また、高次の)暴力である。もはや、暴力性と男性性とを、あいまいに混合したまま議論を続けることは、困難でさえあるのではないか。――おそらく、男性性と暴力性との結びつきを捉えなおす必要がある。, 本稿では、百合男子的観点、という枠組みを素描しつつ、その内在的問題を提示しようと試みた。以降では、(ポスト・)アポカリプス百合SF小説――例えば日本では、伊藤計劃、瑞智士記、草野原々などの小説が挙げられよう――を取り上げながら、それぞれの作品における暴力の在処について論じていきたい。――おそらく、私が百合男子的感性のクリティカル・ポイントに行き当たるのは、そこに辿り着いたときであろう。――しかし、そのような点に至るためにも、上記のような作品を分析していく前に、性差と暴力性との結びつきの、再検討が必要なのかもしれない。, 【 小説 】■大槻ケンヂ『ステーシー 少女ゾンビ再殺談』(2000年6月、角川ホラー文庫)■桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(2009年2月、角川文庫)■魯迅「狂人日記」(1918年4月発表)井上紅梅訳(『青空文庫』参照), 【 小説以外 】 いしもり「百合とSF」(ブログ『ナナメ読みには最適の日々』2017年12月14日投稿), 小泉義之「異性愛批判の行方――支配服従問題の消失と再興」(『生存学研究センター報告24』2016年3月)特に第2章参照」, ■ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』(竹村和子訳、1999年4月、青土社)■マルコムX「The Ballot or the Bullet[投票か弾丸か]」一九六四年三月、オハイオ州での演説(私訳)。荒このみ編訳『アメリカの黒人演説集』(二〇〇八年、岩波文庫)に所収の邦訳を参考にした。■モニク・ウィティッグ「One Is Not Born a Woman[ひとは女に生まれてこない]」(『The Straight Mind and Other Essays[ストレートな精神、並びにその他のエッセイ]』所収、1992年、Prentice-Hall)私訳。, 前編の「4.暴力の在処への問い」末尾で述べた見通しは、その後の環境の変化、また自分の変化を踏まえて、中編で、種々の修正が加えられることとなりました。ご興味ある方は、ぜひ、不毛連盟『ボクラ・ネクラ Vol.3』[ブース:ヌ-13、単品500円、既刊とセットで購入の場合100円引き]を、ご覧ください。, bioklmfxciibfdpocgbpnonhibihljpjioiygytdtckn;po, 「幸福」とは何か?『ジョーカー』と『幸福な監視国家・中国』読書会【闇の自己啓発会】.